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組織マネジメントの本質を考える(コラム)COLUMNS

『笑いながら怒る人と見た目が9割』 (vol.34)

「来週は人生初のプレゼンに行ってきます。」「そうか、準備はバッチリだろうな?」「3日間徹夜して完璧なプレゼン資料をつくりました。」「なぬ〜、中身なんか関係ないんだよ。」「はあ。」「見た目が9割の法則を知らないの?」「「あ〜、そうでした。」「見た目で9割決まっちゃうんだよ。」

見た目が9割の法則とは、いわゆるメラビアンの法則のことをいっている。アルバート・メラビアンという心理学者が『NONVERVAL COMMUNICATION(言葉を使わないコミュニケーション)』という論文で発表した実験結果を指している。コミュニケーションの系のビジネス書では鉄板になっている。

メラビアンの法則は多くの場合、次の文脈で説明される。コミュニケーションで相手に伝わるのは、見た目(服装、表情、視線、しぐさ、態度)が55%、話し方(声のトーン、速さ、大きさ、口調)が38%、話の内容(言葉の意味)が7%になる。相手に何が伝わるかは、話の内容ではなく見た目や話し方で決まる。

たしかに見た目や話し方は大事だろうが、話の内容がほとんど伝わらないってのは言い過ぎじゃないか。そう、言い過ぎであった。メラビアンの実験は、好印象、中庸、悪印象の3種類の単語を使い、3酒類の表情の写真と3種類の話し方の録音を、矛盾した組み合わせで示し、どれが強く感じたかを答えさせる。

この実験では、言葉は単語レベルで扱っている。好印象の単語(honey、thanks、dear)、中庸の単語(maybe、really、oh)、悪印象の単語(don't、brute、terrible)を使う。”話の内容が7%”と言われているが、”単語の意味が7%”のほうが正しい。”コミュニケーション”と一般化するのは無理がある。

実験結果が正しく適用されるのは、ひとつの単語を発する一瞬の場面に限られる。一発芸でこの法則を知ってか知らずか使われていた。竹中直人の”笑いながら怒る人”。「ばかやろー」と笑って言われても全然怖くない。響の”ミツコ”。「どーもすいませんでした」と怖い顔で言われても全然謝罪が伝わらない。

ビジネスにおいても、一瞬の場面ではこの法則があてはまる。お客様への挨拶や、社内での返事などは、単語の意味よりも見た目や話し方が決定的となる。単語がつながり文章になった時点で、55%、38%、7%の法則は消える。文章を伝えるときに相手に伝わる印象は、実験した人がいないのでわからない。

メラビアンの法則をコミュニケーション全般にあてはめて説明されることが多すぎるので、以上のようにそうではないと批判も多く出てきている。しかし、批判を超えてもう少し考えてみたい。文章でコミュニケーションするとき(ほとんどのコミュニケーションの場合)、この実験をどう応用できるだろうか。

3つの要素は、Visual(視覚)、Vocal(音声)、Verval(言葉)の”3つのV”といわれる。実験では、3つのVがそれぞれ矛盾したとき、どれが伝わりやすいかを見た。”矛盾したとき”というのがこの実験のポイントといえる。現実の場面では、無意識のうちに3つのVは矛盾してしまうのだろう。

話の内容(文章)を伝え合う通常のコミュニケーションの場面では、当然だが話の内容を伝えることが最重要であり、コミュニケーションの目的になる。しかし、無意識のうちに3つのVが矛盾しがちになってしまう。例えば、話す内容がすごくポジティブなのに、話し方はすごく冷静になっている。

日常のコミュニケーションでは、言葉の内容(論理)が優先されたり、感情(表情や話し方)が優先される場面が少なくない。3つのVが偏っている状態といえる。話の内容(論理)と感情(表情や話し方)を無意識から意識に引き出して、3つのVが統合されているか意識することが突破口になるかもしれない。

次回は思いつきとマネジメントについて考えていく予定です。[2015年6月8日]

『概念の最新ver.が現実をつくる』 (vol.33)

「中期経営計画をつくるにあたって、各マネジャーの3年後のビジョンを聞きたいのだが。」「ビジョン、ですか?」「皆の考えをできるだけ取り入れようと思う。」「ピジョンなら知ってますけど、最近子供ができたばかりなので。」「えぇ、ビジョンを知らないのか。」「ハイビジョンじゃないですよね。。」

「ちがうでしょ。」「はっ、すみません。」「じゃ、部下のみんなに聞いてみよう。」「君の3年後のビジョンは?」「いま忙しいんで後でいいですか。」「もちろんだ。」「なんで急に赤ちゃん系のこと聞くんですか?」「おぉ、ピジョン。」「そんなことより、この仕事の忙しさを何とかしてくださいよ。」

マネジャーと部下が悪いわけではない。マネジャーと部下にはビジョンという概念がなかっただけだ。概念がなければ、その人の現実にそれは存在しない。ビジョンという概念がなければ、ビジョンについて考えようがない。ないものはない。しかし、その人にとってあるとないの境目は流動的なものだ。

アメリカには肩こりという概念がないため、肩こりを感じる人はいないらしい。しかし例えば日本で暮らすようになって肩こりという概念を知ると、肩こりになってしまうことがあるという。何かがあるかないかは、その人の持つ概念で変わる。概念のデータベースが変われば、見える世界が変わるのだ。

ドラッカーは著書『マネジメント』で次の逸話を紹介しています。
<古くからの言い伝えに、三人の石切り職人に「何をしているのか」と尋ねたという逸話がある。ひとり目は、「生活の糧を稼いでいる」と答えた。ふたり目は、仕事の手を休めずに「この国で最高の石切り職人としての仕事をしている」と言う。三人目は、顔を上げると、希望で瞳を輝かせながら、「大聖堂をつくっているのです」と述べた。この三人目こそが真のマネジャーである。>

ひとり目の職人には、仕事の技術を最高に高めるという概念はないだろう。二人目の職人には、自分の仕事は大聖堂をつくることだという概念はないだろう。しかし、単に石を切る作業が自分の仕事ではなくて、大聖堂をつくることが自分の仕事だという概念を知ったら、仕事の世界が違って見えるかもしれない。

人は概念のデータベースの最新バージョンの範囲で世界を捉えている。というより、その範囲の中でしか世界を捉えることができない。しかし逆に考えれば、概念のデータベースをうまく更新(バージョンアップ)できれば、今まで見ていた世界が違って見える。見たことのない現実が目の前に現れる。

更新は容易にできるものか?例えばスマホのアプリを新たにインストールするとき、古いOSのままだと”このOSのバージョンには対応していません”と非情な宣告を告げられることがある。新しい概念をデータベースに追加する場合も、古い概念で頭が固まっている状態ではその更新は成功しないだろう。

パソコンの場合は有無を言わせない。WindowsXPは今では”ないもの”という扱い。古いOS自体が使えない。仕方ないから不満を叫びながら更新する。今現在全く問題ないのに、なぜ面倒なことをする必要があるか。人は基本的に保守的だ。しかし、更新してしまえば意外とその困難も忘れてしまう。

その人の概念のデータベースを更新するには、このように半ば強制的な外圧も必要になるだろう。ひとりひとりの概念のデータベースが更新され、組織に新しい概念が浸透するまで試行錯誤を続ける。組織マネジメントの役割は、最初にマネジャーのデータベースを更新し、それを組織全体に拡散させることだ。

概念のデータベースに新たな概念が追加されると、データベースが最新バージョンに更新される。パソコンのOSと同様に、一度新しいバージョンに更新されれば古いバージョンに戻ることはない。ひとりひとりの概念のデータベースが最新バージョンで共有されたとき、組織に新しい現実(歴史)がつくられる。

次回は欲求5段階説とマネジメントについて考えていく予定です。[2015年3月2日]

『思考のエントロピーからの脱出』 (vol.32)

「今日集まってもらった理由は分かっているだろうな。」「ここ最近売上が落ちているからですね。」「どうしたらよいか皆の意見を聞かせてくれ。」「訪問回数を増やすしかないですよ。」「回数でなく滞在時間を増やすしかないです。」「その前にどこに行くか戦略を練るしかないでしょう。」

「しかないって、そんなに自信があるわけ。」「だって、それしかないですよ。」「他の答えも検討したのか。」「それしかないんだから、検討の余地もないでしょう。」「ていうか、検討してないんじゃないのか。」「いずれにしても、それしかありません。」「いずれにしてもって、マジックワード使うな。」

世の中が複雑になっていくにつれて、問題に対する答えも複雑になってくる。過去と同じ答えを繰り返しても、過去と同じ結果は出せない。過去の答えに縛られない、新しい答えを創り出す必要がある。しかし、現実の組織では”しかない症候群”ともいうべき、思考のエントロピーが壁になることが多い。

福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』では、以下のように説明しています。
<エントロピーとは乱雑さ(ランダムさ)を表す尺度である。すべての物理学的プロセスは、物質の拡散が均一なランダム状態に達するように、エントロピー最大の方向へ動き、そこに達して終わる。これをエントロピー増大の法則と呼ぶ。>

エントロピー増大の法則により、秩序あるものは全て無秩序に向かっていき、最大の無秩序の状態で終わる。新しいものは、自然と古くなっていく。綺麗なものは、自然と汚くなっていく。そして、この法則に逆方向はない。古いものが自然と新しくなったり、汚いものが自然と綺麗になったりはしない。

生きているものは動物であれ植物であれ、その寿命を全うするならば寿命に向かって衰えていく。最終的に無数の細胞を動かしていた秩序は、完全な無秩序の状態(死)に至る。一見すると、寿命に向かって全体が徐々に衰えていくように見える。しかし実際は、もっとダイナミックな動きが起こっている。

『生物と無生物のあいだ』では、さらにこう説明しています。
<生きている生命は、絶えずエントロピーを増大しつつある。つまり、死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に近づいていく傾向がある。生物がこのような状態に陥らないようにする、すなわち生き続けていくための唯一の方法は、周囲の環境から負のエントロピー=秩序を取り入れることである。実際、生物は常に負のエントロピーを”食べる”ことによって生きている。>

人は食べなければ死んでしまう。何のために食べるかと問われれば、消費したエネルギーを補給するためと普通は答える。それでエネルギーがあれば何でもよさそうだが、生きた(腐っていない)ものしか食べられない。生きている生命は日々無秩序に向い、外から(生きた)秩序を取り入れないと生きられない。

人の身体も思考も自然ならば、思考も同じように考えられるだろう。人生を数十年生きれば、相当の知識や経験が蓄積されてくる。そしてある程度必要な知識や経験が得られたと思うと、”もう学ぶものはない”的な”いっちょあがり”の発想になってくる。ところが、思考のエントロピーも日々増大している。

今まで積み上げられてひとつの秩序になった思考は、自然の法則として日々無秩序へと向かっている。例えば、言葉の意味は日々古くなり、言葉を組み合わせた概念も日々古くなる。最終的には、現在の環境では使いものにならない言葉や概念(死)に至る。死に至れば柔軟性はゼロ(”しかない”)になる。

『生物と無生物のあいだ』では、またこう説明しています。
<エントロピー増大の法則は、容赦なく生態を構成する成分にも降りかかる。高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷をうけ変性する。しかし、もしやがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積するよりも早く、常に再構築を行うことができれば、結果的にそのしくみは、増大するエントロピーを系の外部に捨てることになる。>

やがては役に立たなくなる言葉や概念をあえて先回りして分解し、思考が固まってしまう(死に至る)よりも早く、常に新たな言葉や概念を再構成していく。この作業を意図的に行うことことで、思考のエントロピーから脱出できる。例えば、自分が検索しない分野の言葉や概念に積極的に触れるようにする。

『生物と無生物のあいだ』では、続けてこう説明しています。
<エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろそのしくみ自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。>

思考とは言葉や概念の積み重ねではなく、言葉や概念の流れだと捉える。だから、すごろくのような”あがり”はない。流れているか、流れていないか。自分の思考を強化する方向でなく、むしろあえて崩して思考を流れの中に置く。組織マネジメントは、組織に思考の流れをつくらなければならない。

次回は概念と存在の関係について考えていく予定です。[2015年2月16日]

『認識のパラドックスとバカの壁』 (vol.31)

「管理職のためのコミュニケーション講座か。」「何を今さらっつうの。」「ほんと、忙しくてそんな暇はないんだよ。」「コミュニケーションばっちりだから出世したんでしょ。」「その通り。」「逆にコミュニケーションとは何かを教えてやりましょう。」「そうだな、偉そうな講師に喝を入れてくるか。」

「コミュニケーションで大事なことは3つです。」「いきなり偉そうやな。(心の声)」「ひとつ目は、相手の話をよく聞くことです。」「ふむ。」「よい管理職とは、部下の話をよく聞く人です。」「先生、それがまさに私の毎日やってることです。人の話を聞くっていうのは、○%#×△?$□*・・・。」

「いやぁ、部長の聞き方の話すばらしかったですね。」「そうだろ。」「あの偉そうな講師も勉強になったでしょうね。」「当たり前の話するだけで講師っておかしいだろ。」「まったくすっきりしましたよ。」「次回から俺が代わりに講師やってやるよ。」「いいですね。」「まあ忙しくて無理だけどな、ははは。」

自分は相手の話を聞いていると言う人ほど、本当は相手の話を聞いていない。自分は相手の話を聞いていないと言う人ほど、本当は相手の話を聞いている。まわりを注意深く観察してみると、だいたいこういう具合なっている。この認識のパラドックス(逆説)というべき現象は、どこから生まれるのだろうか。

当たり前のことだが、人は自分の全体像を生で見ることはできない。顔以外の各部分は何とか至近距離で見ることができるが、自分の顔の全体像は絶対に生では見られない。自分の顔は、唯一自分だけが生で見ることができない。だから必然として、自分の全体像も客観的に生で見ることができない。

生ではないが自分の全体像を見る方法がある。ビデオだ。例えば、スキーを滑っている姿をビデオに撮って見てみる。そこに衝撃の事実を見ることになる。自分のイメージと現実の間には、2ランク程の差があるらしい。しぶしぶ事実を認めて改善しようにも、自分の姿を生で見ながら修正することはできない。

人は自分が思うままに、自分の身体を動かすことができない。トップアスリートでさえ日々の厳しいトレーニングを怠れば、自分の思い通りに身体を動かすことができなくなる。自分の思いと身体の動きとは、なぜかお互いに遠い存在になっている。思いと身体の関係は、意識と無意識の関係と同意だろう。

(意識的な)思いと(無意識的な)行動は一致しているように見えるが、お互いに独立していると捉えてみる。自分が思った通りに、自分の身体が動いていないかもしれいと考える。自分の思いは意識的に頭の中から排除して、自分の身体はどう動いているだろうかと自覚的に(客観的に)チェックしてみる。

どうしたら人は無意識の行動に自覚的になれるのか。この問いは認識のパラドックスにつながる。「人の話を聞いていない」という言葉は、話を聞くことに自覚的だからこそ言える言葉だろう。一方で「人の話を聞いている」という言葉は、話を聞くことに無自覚だからこそ断定的に言えるのだろう。

話を聞くことに無自覚な「人の話を聞いている」上司が、部下から「人の話を聞いてください」と言われる。「いつも聞いているだろう(お前はバカか)」と瞬時に返す。ここに養老孟司氏のいう”バカの壁”があらわになる。両者の間にバカの壁が立ちはだかる間は、お互いに理解し合うことはできない。

”バカの壁”を壊すためには、認識のバラドックスを自覚する。「〜できている」と言っていると気づいたら、危ういと思うようにする。そして「〜できていないかもしれない」と言い換えてみる。そうすることで、無自覚なままでは見えにくい自分の身体の動きを認識できるようになってくる。

人と人との間の”バカの壁”を壊していくことが、組織マネジメントの役割のひつとだろう。壁を壊すまでいかないまでも、その高さを低くしていく。壁の高さが低くなるにつれて、埋もれていた意見やアイデアが行き交うようになる。それらがぶつかり合い、今まで見たことのない組織の力がその姿を現す。

次回は思考のフローとストックについて考えていく予定です。[2015年2月2日]

『複雑系の組織マネジメント(後)』 (vol.30)

「顧客に均質のサービスを提供するために、接客マニュアルを作りましょう。」「社員も増えてきたし、人によってサービスの質が違うのは困るな。」「たとえば、試食用のナッツは袋から出して提供するとか。」「それは重要なことだ。」「接客マニュアルで組織を変革して、売上倍増を目指しましょう。」「ふむ。」

「接客マニュアルの効果はどうだ?」「マニュアルを守らせるのは大変でしたが、なんとか組織に浸透しました。」「予定通り売上も倍増したのか。」「それが。。」「どういうことだ?」「社員がマニュアルのことばかり考えて、お客様のことを考えなくなりました。」「ばかやろ〜、マニュアルはすぐに廃止しろ。」

「売上倍増を目指して導入した接客マニュアルですが、今日から廃止することになりました。」「せっかく苦労して覚えたのに。」「すみません。」「今日からどうすればいんですか?」「マニュアルはありませんから、皆さん自由に接客してください。」「はぁ。」「各自がベストの方法を考えて実行するのです。」

「マニュアル廃止の効果はどうだ?」「上司は指示をしないようにして、各自が自由に接客するようにしました。」「それで。」「売上があがる社員とあがらない社員の差が広がりました。」「売上があがる社員が辞めたらアウトじゃないか。」「そうなんです。」「なんとかしろ、ばかやろ〜。」「ふう。」

複雑系の特徴として、”カオスの縁”という概念がある。カオス(chaos)とは単純化していえば、無秩序で混沌とした状態のことだ。複雑系は秩序とカオスの境界にある”カオスの縁”で、バランスのよい柔軟な組織を維持することができる。組織は秩序と自由の”カオスの縁”で、その”生きている”姿を現す。

マニュアル至上主義でいくと秩序に偏りすぎる。放任主義でいくとカオスに偏りすぎる。その境界にある”カオスの縁”で組織を機能させる。組織マネジメントは”カオスの縁”を目指す。何かを議論するとき、私たちは二元論に陥ることが多い。マニュアルはよいか悪いか?しかし、最適な答えはその間に存在する。

マニュアルを論じる場合は、マニュアルの定義が問題になってくるだろう。「当社のマニュアルとは何か?」から議論を始める。機械を扱うマニュアルがイメージとして強いために、詳細な作業の手順書がマニュアルだと考えがちだ。しかし、人が相手の接客業務であれば、”カオスの縁”に行動を導くことを目的とする。

『複雑系入門』では、以下のように説明しています。
<カオスの縁では一歩間違えばカオスの海原に飲み込まれ、また反対では凍結の地が待ち構えている。生命の本質というのはこのちょうど境界の部分で、必死にバランスをとろうとしているのかもしれない。この巧妙な仕組みが自然に発生し得るという点が重要なのである。>

複雑系である組織は、カオスの縁で必死にバランスを取ろうとしているときに”生きている”状態になる。組織マネジメントは、組織が秩序のほうに振れすぎてないか、カオスのほうに振れすぎてないかを常に観察する。一度どちらかに向かうと、慣性の力も加わるだろう。それらを戻しつつ、バランスを取りにいく。

複雑系のカオスでは、さらに”初期値の鋭敏性”という特徴がある。「ブラジルで蝶が羽ばたくとそれが増幅されてアメリカで嵐が起きる」という比喩から、”バタフライ効果”と呼ばれる。わずかな初期値の差異に対して、結果が大きく異なるという性質だ。初期のわずかな”ゆらぎ”が、結果に大きな影響を及ぼす。

逆に言えば、複雑系にわずかな”ゆらぎ”を与えることによって、結果を大きく変えることができる。これを組織にあてはめれば、ひとりまたは少数のメンバーが組織に”ゆらぎ”を与えることで、組織を大きく変えることができる。このとき、”ゆらぎ”が組織の複雑系に”ひっかかる”かどうかが問題になってくる。

組織マネジメントは、あるべき変革の方向に向かってわずかな”ゆらぎ”を起こす。しかし、そのゆらぎが組織の複雑系に運よくひっかかっても、その後の動きは予測できない。ゆらぎが起きたことを察知したら、その後どう変化していくか観察する。変化に問題が現れたら、すばやく次の”ゆらぎ”を起こす。

組織を複雑系という”生きているシステム”と捉えると、組織マネジメントの立ち位置が見えてくる。生きている動物や植物に例えるならば、機械のようにコントロールはできない。何らかの世話をしたら、その反応を待つしかない。組織をコントロールしようとせず、組織を育てていくのが組織マネジメントかもしれない。

次回は認識のパラドックスとバカの壁について考えていく予定です。[2015年1月19日]

『蓮田SAは存在するか(番外編)』 (vol.29)

昨年末に今シーズンの初滑りに行って来た。「いやぁ、待望のスキーシーズンがやってきたね。」「ハンタマことハンターマウンテンか、久しぶりだな。」「東北道は空いていて快適だよ。」「ところで朝食はどうする?」「東北道の岩槻ICから入るから、最初の蓮田SAに寄るのはどう?」「いいね、そうしよう。」

「今日は全国的に晴れの予報なんだよね。」「絶好のスキー日和になりそう。」「雪が多いからスキー場があるのに、合い間の貴重な晴れに滑るのが贅沢なのよね。」「生きててよかったと思う。」「あれ、次のPAは羽生だって。」「蓮田SAなかったね。」「岩槻ICより手前だったかも。」「歳とってボケたか。。」

このとき自分にも相方にも蓮田SAは存在しなかった。二人して標識を見逃したのだろうか。あれだけ大きくて見やすい標識が、二人の目に入っていないはずがない。視界には入っていたが、認識されなかったという状態だろう。しかし、あのとき二人にとって蓮田SAはあったかといえば、やはりなかったのだ。

それは主観であって、客観的にあるのは事実でしょう。普通はこう返されるのがオチだ。ひとりひとりの主観とは別に、客観的に唯一の世界が存在している。そう言われるとそうである気がするが、本当にそうなのだろうか。自分にとっては、そのとき蓮田SAがなかったのは事実なのではないか。

人が記憶を辿るとき、”視覚に入ったが認識されなかった”事実は思い出されないだろう。ならばその人にとっての事実は、その人が認識した現象に限られる。その人が認識してきた事実の集合体が、その人にとっての世界だ。客観的な唯一の世界を見ているのではなく、ひとりひとりが独自の世界を見ている。

そうなると客観的な唯一の世界が存在するかどうかが問題でなく、ひとりひとりが認識している世界が違うことが問題になる。自分が認識してきた事実が自分にとっての世界の全てであり、それは他人にとっての世界とは全く違うという前提から始める。違う世界の人とどう仲良くやっていくか。

客観的な唯一の世界があるとして、その全てをひとりの人間が認識することはできない。人それぞれが、自分なりに世界を編集せざるを得ない。人それぞれが、世界の編集者だ。この人はどんな(無意識の)編集方針で世界を編集しているのだろうか、という視点で他者を見ることができる。

ひとりひとりが世界を編集しているとしたら、独善的になったり、否定的になったり、視野が狭くなっていることもあるだろう。編集の視野を広くするにはどうしたらよいか、自分自身にも他者にも問いかけていく。お互いがもっとよい世界を見るための方法が、コミュニケーションなのかもしれない。

逆に言えば、他者とのコミュニケーションがなければ世界を広げられない。違う世界の人びとがぶつかり合って、それぞれに新しい世界を広げていく。世界が広がれば、今まで見えなかった世界が見えるようになる。人が成長するとは、自らの世界を広げていくことなのかもしれない。

昨年末の自分の世界に蓮田SAは存在しなかった。しかし、代わりに入った佐野SAで極上の焼き立てピロシキに出会うことができた。蓮田SAに寄っていたら、そのときの世界に佐野SAは存在しなかった。優れた世界の編集者とは、予定調和を自ら崩すことができる人なのかもしれない。

次回は複雑系の組織マネジメントについて考えていく予定です。[2015年1月3日]

『複雑系の組織マネジメント(前)』 (vol.28)

「組織が生きているって言われても、なんかピンとこないな。」「そうですね、組織そのものは目に見えないですからね。」「そうなんだよ、組織を見せてくれって言われたらどうすればいいのよ。」「たしかに、組織というのは実体がないですよね。」「うん、目に見えない概念だから捉えづらいんだな。」

「組織っていう実体があると思うと、組織図が組織だと思ってしまうんだね。」「そう、組織図をうまくつくると組織がうまく動く気がしてしまう。」「組織図が設計図となり、設計図に従って組織をつくりあげる。」「目に見えたのはいいけど、目で捉えられると今度は物のように扱いがちになる。」

「う〜ん、組織図はどう見ても”生きてない”なあ。」「でもよく考えると、組織は生きている人間でつくられていますね。」「そりゃ、当たり前だ。」「生きている人間が複数集まって、組織になったら機械に変わるってことはないでしょう。」「だったら、鉄郎も苦労して銀河鉄道999に乗る必要がないものな。」

「だからやっぱり組織は”生きている”んです。」「ふむ。」「生きているシステムは複雑系だから、複雑系の特徴を知れば組織の生き様が見られる。」「複雑系の特徴を知って、組織を生きているシステムと捉えるのだな。」「人間は、”そう見る”ことだけ”そう見える”のです。」「人は見たいものしか見ない、か。」

複雑系の基本的な特徴として、”創発”という現象がある。”創”は創造する、”発”は発する。つまり、今までなかったものが創造され、新たに出現するという意味だ。人はそれぞれ固有の性格を持っているが、人が集まって組織になったとき、自然とその組織の文化が生まれる。会社でいえば、社風というものができあがる。

『複雑系入門』では、以下のように説明しています。
<創発とは、多数の要素がそれぞれ局所的な相互作用をすることによって、全体的な性質が生まれ、その全体的な性質が個々の要素の性質に影響を与えるようなしくみのことである。>

複雑系である組織では、常にこの”創発”現象が起こっている。組織全体の性質は、自然に創られる。そして、その創られた組織の性質に影響されて、各個人の性質も変化する。組織の中では、この目に見えない相互作用が繰り返される。だから、ルールをつくることで、ルール通りの組織をつくることはできない。

ルールをつくるのは無駄な努力なのか。もし、組織にルールがなかったらどうなるだろうか。ルールがなくても創発は起こる。組織全体の性質(文化)は自然とできてしまう。そして、その組織文化に個人は影響を受ける。ということは、全く予測できない方向で組織文化が形づくられ、個人はその文化に影響される。

”創発”は、”自己組織化”ともいう。組織は時間の経過とともに、自主的に自らの文化を形づくっていく。全て自然に任せれば、どんな文化ができあがるか全くわからない。最初に組織を方向づけるルールのようなものがなければ、組織文化は暴走する。自然に自己組織化して、コントロールすることが困難になる。

複雑系の組織が”創発”してしまう以上、ルールによって管理することは困難だ。しかし、組織を方向づけるものとしての”ルール”は必要になる。組織にルールや制度を取り入れるとき、前者の視点と後者の視点では180度その役割が変わってしまう。複雑系の組織にとって、後者の”ルール”がマネジメントの源になる。

次回は引き続き複雑系の組織マネジメントについて考えていく予定です。[2014年12月13日]
     

『ルールとシステムダイナミクス』 (vol.27)

「ここ数年の業績低迷を打破するために、マッキンゼーの7Sで組織改革を断行します。」「お〜、ついに社長も本気出したか。」「Shared Valueは、”何回来てもまた来たい!”です。」「ほ〜。」「ここから経営戦略、組織図、人事制度に落とし込みました。」「ふむ。」「困難な作業でしたが、ついにハードの3Sが完成しました。」

「次は皆さんの番です。」「えっ。」「ハードの3Sを使って、ソフトの3Sを完成させてください。」「何のこっちゃ。」「経営戦略、組織図、人事制度に従って、組織文化、人材、スキルをつくり上げるのです。」「なるほど、これらのルールに従って動けばよいのだな。」「その通りです。」「よ〜し、頑張りマッスル!!」

個人が集まっただけでは組織にならない。ひとつの目的に向かって成果を最大に生み出すように、意図的に働きかけなければならない。つまり、組織マネジメントをしなければ、個人の集まりが組織になることはない。そのときに、組織というものをどう捉えるかによって、アプローチのしかたが違ってくる。

上記は、ルールを作って組織を動かすというアプローチ方法だ。この考えの奥には、ルールによって組織をコントロールしよう(できる)という思想がある。どちらかというと個人個人にフォーカスするよりも、企業であれば社員というひとつの抽象概念にフォーカスしている。法律や規則もこの考え方と同様だ。

組織の理想的な形を描いて、それに個人が合わせていけば理想の組織に近づいていく。論理的に考えると、このことは正しそうに思われる。言葉は論理(ロゴス)だから、頭ではそう理解する。しかし、頭の中で論理的にシュミレーションできたことが、現実にはその通りにならないことが多い。

言葉は論理でできているが、現実は論理だけでできていない。”言葉にできない”ということがある。このとき現実は論理を超えている。ヴィトゲンシュタインは言った。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」したがって、組織が論理の他にどのような性質を持つのか、さらに考える必要がある。

ルールで組織を動かすということは、個人はルール通りに動くものという前提に基づいている。組織を自動車のような機械的なシステムに例えて、全てのパーツが設計通りに動けば最高性能を発揮すると考える。何かを”機械的”に捉えるとわかりやすいが、わかりやすいことと真実であることは別のことだ。

機械的に捉えるとは、科学的に捉えると言い換えることができる。科学的にシステムを捉えるとは、システムをその構成する要素に分解して理解していくことだ。そうすれば、そのシステムの全容が解明される。ひとつの正解を持つ”静的な”システムが目の前に現れる。個人は各自のベストな役割で関わり合っている。

組織が完成することがあるとすれば、これでよい。しかし、諸行は無常だ。いにしえの時代から、完成したとみえた組織が永遠に続くことはない。組織は、論理を超えたところで常に変化し続けている。繁栄する時期もあれば、衰退する時期もある。健康なときもあれば、病気のときもある。組織も“生きている”のだ。

”生きている”システムならば、要素に分解しても理解することはできない。人間の身体を全てのパーツに分解しても、生きている人間を理解することはできない。その科学的な方法の限界を超える試みとして、生きているシステムを”複雑系”というシステム(complex system)として捉えようとする方法がある。

井庭崇、福原義久著『複雑系入門』では、複雑系について以下のように説明しています。
<バラバラに分解できる要素の単純な組み合わせで全体が構成されているシステムではなく、バラバラにしてみると本質が抜け落ちてしまうような特殊なシステムを『複雑』(complex)なシステムと呼ぶ。>

バラバラにしてみるとシステムの本質が抜け落ちてしまう。たしかに”生きている”ものは、何か複雑なものが集合してひとつの全体となり、全体としてひとつの性質(=アイデンティティ)を持つように思われる。よく性格分析などでは、複数の要素に分解して説明されるが、何かごまかれた気がするのはそのためか。

『複雑系入門』では、さらに以下のように説明しています。
<そのシステムを構成している要素は各自のルールに従って機能しており、局所的な相互作用によって全体の状態・振舞いが決定される。そしてそれらの全体的な振舞いをもとに個々の構成要素のルール・機能・関係性が変化していく。このようなシステムを『複雑系』と呼ぶことにする。>

”複雑系”のアプローチでは、理想的な形を描いてそこへ導くのでなく、システム全体がその構成要素と相互に作用し合って、システム全体と構成要素が常に変化するものだと捉える。組織でいえば、個人があるルールで動いた結果が組織全体の状態に影響を与え、それが組織を変え、それに影響されて個人のルールが変わる。

組織と個人の関係は組織とチームの関係になることもあるし、チームと個人の間にもこの相互関係が起こるだろう。そう考えると、まさに”複雑な”システムだ。複雑であるが、複雑であるがゆえにエネルギーも生まれそうだ。組織を”静的な”システムでなく、”動的な”システムと捉えることで、組織マネジメントの質が変化する。

『複雑系入門』では、続いて以下のように説明しています。
<生物や脳、社会のような『複雑系』は分解して理解することができない。なぜなら、『複雑系』の構成要素の機能・振舞いは全体の文脈の中で決定されるからである。機械の場合には、各部品はそれぞれ決まった機能を持っている。機械を分解したとしても、それぞれの部品の持っている機能は変わらない。ところが、「生きている」システムの場合、文脈によって各構成要素の機能自体が決められている。>

広辞苑で”文脈”を調べると「文中での語の意味の続きぐあい。文章の中での文と文との続きぐあい。比喩的に、筋道・背景などの意にも使う。」とある。その時々で変化する組織の文脈を捉え続けることが重要といえる。ルールで組織をつくるのではなく、”生きている”組織がルールをつくるという逆転の発想が突破口になる。

次回は複雑系の組織マネジメントについて考えていく予定です。[2014年11月17日]
     

『組織マネジメントの科学と心(後)』 (vol.26)

「21世紀は気合い営業の時代ではありません。」「えっ。」「はやぶさも無事地球に帰還したことだし、科学的な営業の時代です。」「はやぶさ関係ないっしょ。」「早速、当社の営業ハイパフォーマーの行動を分析しました。」「おぉ。」「その結果、訪問頻度と対応スピードが売上に比例するとの仮説が導かれました。」

「営業マンの皆さん、今日から1分単位で行動を日報に記録してください。」「えぇっ。」「仮説が本当かどうか確かめるための実験です。」「まぁ、それが科学的な方法だ。」「日報に虚偽記載があったら評価を下げます。」「どきっ。」「毎週結果を分析して改善方法を指示します。」「どこまで管理するつもりやねん。」

「え〜、科学的な営業を始めて半年が経ちました。」「はぁ。」「その結果は。」「その結果は。」「仮説が正しいことが証明されました。」「もう疲れた。(心の声)」「営業マンの行動管理を今後も続けて、売上倍増を目指します。」「俺たちロボットじゃないぜ。(心の声)」「科学的営業で日本一を目指しましょう。」

小林秀雄は学生向けの講演で科学についてこう言っています。
<いつでも科学は、物と物との因果関係、自然はどういうふうに動いているかという因果関係を目指しているものです。科学は僕らの生活経験を目指しているのではない。僕たちが生活においてどういうふうに能率的に行動すべきか、ただそこを目指しているだけだ。そういう意味で、科学は認識ではありません。>

企業の組織マネジメントは、その結果として利益を生み出すことを目的としている。利益(売上)と計量できる営業マンの行動の因果関係を科学的に分析すれば、科学的な視点において、行動と売上の関係が見えてくる。売上を上げるために、どう能率的に行動すればよいかが分かってくる。ただし、科学的な方法の範囲の中で。

小林秀雄は学生向けの講演で科学について続けてこう言っています。
<科学はそういうものだと、その性質を知って科学をやりなさいということです。今は、科学をしなければ、誰も生きていられません。物の法則を知ることだって、人間には大切なことです。科学は本当に物を知る道ではなく、いかに能率的に生活すべきか、行動すべきか、そういう便利な法則を見出す学問なのです。それもたいへん必要なことだけれども、見誤ると、科学さえやっていれば僕らは物を知ることができると思ってしまう。>

組織マネジメントの法則を科学的な方法で発見することは、利益という結果を出すために重要かつ必要なプロセスだ。科学的な視点が一切なければ精神論になってしまう。しかし、科学的な方法で組織マネジメントの法則がわかったとしても、それで組織マネジメントがわかったことにはならない。それだけではうまくいかない。

企業の組織マネジメントを考えるうえで、マッキンゼーの7Sというフレームワーク(思考の枠組み)がある。少し複雑なのであまり引用されないが、組織マネジメントの科学と心の全体像をうまく表している。ハードの3Sとソフトの4S、7つのSをうまく関係づけて、ひとつの有機体として組織を機能させる。

ハードの3Sは、Srategy(戦略)、Structure(組織構造)、System(制度)。ソフトの4Sは、Shared value(共通の価値観)、Style(組織文化)、Staff(人材)、Skill(スキル)。科学的な方法で法則を発見できるのは、ハードの3Sの範囲だろう。組織マネジメントを機能させるには、別にソフトの4Sが必要だ。

7Sの概念図は、真ん中にShared value(共通の価値観)があって、他の6Sがその周りを囲み、網の目状にすべてがつながっている。Shared value(共通の価値観)は7Sの中心にあって、他の6Sの源泉になるものだ。フレームワークは企業の成功事例を分析したもの。成功した組織の中には全て共通の価値観があった。

Shared value(共通の価値観)、Style(組織文化)、Staff(人材)、Skill(スキル)は、知識の資格試験的なスキルを除けば、いずれも計量が難しいだろう。組織マネジメントの中で、科学的な方法が役に立たない範囲を表している。科学的な方法が及ばない分野について、科学ほど明快な解き方を人はまだ発見していない。

組織マネジメントの心の範囲については、既にある解き方を使って正解を見つけるというよりも、解き方そのものを見つけようとする努力が必要になる。解き方はそれぞれの組織ごとに違う。科学的な方法をうまく使ってハードの3Sを構築し、ソフトの4Sでその仏に魂を注入する。科学と心が組織マネジメントの駆動力となる。

次回はルールとシステムダイナミクスについて考えていく予定です。[2014年11月4日]
     

『組織マネジメントの科学と心(前)』 (vol.25)

「今日は我が社の営業部に渇を入れるために、アニマル浜口さんをお呼びしています。」「営業マンの皆さん、気合いだ、気合いだ、気合いだ、気合いだ〜、おいおいおい。」「ありがとうございました。」「わあ〜、はっ、はっ。」「それではとっととお帰りください。」「うちの会社どこに金かけとるんじゃ、ボケ。(心の声)」

「ということで今年も気合いで行くぞ〜。」「お〜、って俺だけやないかい。」「どうぞ、どうぞ。」「気合い入れんか〜い。」「あの〜、今の時代は気合いじゃ売れんですよ。」「なんだと。」「科学的な営業をするべきですよ。」「科学的ってどういう的よ。」「ある現象とある現象の間に一定の法則を見つけることですよ。」

「う〜ん、それでどうやって見つけるんだ。」「科学的な方法を使って見つけるんです。」「科学的とは方法のことなのか。」「まず最初に、ある法則が成り立つという仮説を立てます。」「ふむ。」「そしで何度も実験して同じ結果が出れば、それは科学的に最も正しい仮説とするという方法です。」「科学とは方法なのだな。」

「科学には”反証主義”という考え方があります。」「ふう。」「実験や観測によって反証される可能性がなければ、その法則は科学的といえない。」「ほう。」「1000回同じ結果が出ても、1001回目に違う結果が出ないと言いきれない。」「うん。」「だから、真実だと言いきったら科学的な方法とはいえない。」

科学的とは、真実に近づくためのひとつの方法のことだ。科学的に真実であるということは、科学の方法によれば現在最も真実に近い仮説であるということ。宇宙は137億年前にビックバンで創られた。将来反証の可能性があるから、現在、科学的に真実である。神が宇宙を創ったは、反証の可能性はないから科学的ではない。

「”お客様に丁寧に接すれば売上があがる”という法則を仮説として、何度も実験すれば科学的な方法になる?」「科学は計量できるもの同士の関係をみます。」「たしかに、丁寧さは計量できないな。」「”お客様への訪問回数が多ければ売上が上がる”は科学的に検討できます。」「科学的とは計量できる現象を対象にすることか。」

小林秀雄は学生向けの講演で科学の法則についてこう言っています。
<近代科学というものの法則を定義すれば、それは一つの計量できる変化と、もう一つの計量できる変化との間のコンスタントな関係ということです。科学はいつでも、この法則の下にあるのです。科学は法則に従う経験だけに、人間の経験を狭めたのです。そういうことを諸君ははっきりと知っていなければ駄目です。>

私たちは科学的に真実だと言われると、それが真実だと思いがちだ。宇宙は科学的に137億年前にビッグバンで創られたと言われると、それが真実であったと思い込みがちになる。しかし、それが今のところ最も確からしい真実として、計量できる法則を探しながら、新たな真実(反証)を考え続けるのが科学的な方法だ。

組織マネジメントを科学的に行うとは、計量できる2つの現象を決めて、その間の法則性について仮説をつくり、実験を繰り返していくことだ。実験を繰り返して、仮説の精度を磨き上げる。そのためには、まず仮説をつくらなければ始まらない。より真実に近い仮説にするためには、できるかぎり論理的に仮説をつくりあげる。

小林秀雄は同じ講演で科学の方法について続けてこう言っています。
<科学では計算ということが一番大事なことだから、17世紀以来科学が最も困ったのは精神の問題、心の問題だったのです。精神というものは計れないだろう。科学は君の悲しみを計算することはできないだろう。>

組織マネジメントは、精神論よりも科学的に行われるべきだろう。今の時代、科学的な方法よりも説得力が高く、効果が上がる方法は他になさそうだ。しかし、そこでは人間の心の問題が対象外であることを忘れがちだ。機械的に人間を捉えがちになる。科学的なマネジメントの外側に、人の心があることを忘れてはならない。

次回は引き続きマネジメントの科学と心について考えていく予定です。[2014年10月20日]
     

『考えの異種格闘技と意思決定(後)』 (vol.24)

「みんないいか、意見をぶつけ合うんだ。」「おお、意見の異種格闘技ですね。」「そうだ、派手にやっちゃっていいぞ。」「今日のテーマは”セールスレボリューションだ”。」「つまり、営業革命ですね。」「そうだ、今までのやり方ではジリ貧だ。」「よーし、革命を起こしちゃうぞー。」「ゴングが鳴ったぞ、ファイト!」

「片っ端からローリングだ、このやろー。」「ローリングなんか時間の無駄だ、ばかやろー。」「顧客を選んで提案営業だ、まいったか。」「いやいや、SNSで広告打っちゃうよ。」「ここは大技のテレビCMでどうだ。」「なに言ってんの、まずは既存客に話を聞くんでしょ。」「何があっても売り込まない、てのはどうだ。」

「う〜ん、なんか違うな。」「え〜、俺たち必死で闘ってますよ。」「それはわかるんだけどね。」「じゃあ、何が違うんすか。」「そうね、格闘技ってよりも街場のケンカに近いのね。」「はあ。」「つまり、ルールもなくただ相手が倒れるまで打ち合っているだけというか。」「たしかに、格闘技で組んでいる感じはないな。」

ただ意見をぶつけ合うだけでは、異種格闘技にはならない。意見と一言で言っても、その内容にはレベルがある。単なる意見か、考え抜いた考えか。単なる意見とは、その場で思いついた意見や、マスコミなど他人の意見に影響されてそう思い込んでいる意見だ。つまり、自分で考えて得た意見ではない。

自ら考えられていない意見は、意見そのものが弱い。弱い犬ほどよく吠える。自分が弱いと無意識で分かっているから、先に相手を攻撃して自分は強いと自分に思い込ませる。攻撃をやめたら自分がやられる。相手があきらめるまで吠え続ける。格闘技が成り立つためには、ある程度対等なレベルの技術と強さが必要だ。

意見が強いとは、それが自ら考え抜かれていることだ。意見は、当たり前だが言葉でつくられる。ロゴス(logos)というギリシャ語がある。広辞苑によれば、@概念・意味・論理・説明・理由・理論・思想などの意。A言語。理性。とある。古代ギリシャ時代には、言葉と論理とは同じことであった。

もとをたどれば言葉とは論理であり、言葉があるから論理がある。人間は言葉を話す以上、論理から逃れられない。言葉の意味が分かるとき、特に複数の単語がつながる文章の場合は、筋が通っている=論理的である感じがある。意味が分からなければ、言葉はただの記号の羅列だ。知らない外国語の場合がそうなる。

自分の意見を発信しても相手に意味が伝わらなければ、対等な対話はできない。言葉が行き来していても、意味が行き来していなければ対話にならない。意味のない言葉の記号が行き交うだけで、お互いに一方通行の放送をしているようなものだ。異なる人同士の対話=異種格闘技は、その話す言葉の意味が大切になる。

言葉が記号を超えて意味になるとき、言葉は”言葉=論理”のロゴス状態になる。論理的である=ロジカルであるとは、因果(原因と結果)関係が明確であることだ。「なぜそう言えるのか」「そう言ってどうなるのか」という2つの問いにどこまで答えられるか。この問いと答えを自ら繰り返すことが”考える”ことだ。

自分が発信しようとする意見について、論理的と言えるまで自ら考え抜いておく。自分の意見を強い考えにまで育てておく。強さがあれば吠える必要はない。自分で考え抜いているから、相手がどう考えるているかも気になってくる。考えのぶつかり合いになれば論理がルールになり、異種格闘技を闘い合うことができる。

意思決定のために重要な考えの異種格闘技は、出場する選手のトレーニングの質と量に左右されるのだ。ミーティングに出席するメンバーが、設定されたテーマに対する自分の意見について考え抜いて、意見というよりも考えに昇華させる。もし事前に全くトレーニングしていなかった場合は、危険だから開催中止にする。

ドラッカーは著書『マネジメント』で議論の方法についてこう言っています。
<強い懇願や先入観にとらわれないためには、対立するいくつもの意見について議論し、論拠を広げ、徹底的に考えるよりほかはない。>

”対立するいくつもの意見について議論し、論拠を広げ、徹底的に考える”ためには、事前に自分の意見について”論拠を広げ、徹底的に考え”ておかなければならない。当たり前だが、格闘技のゴングが鳴ってからトレーニングする時間などない。しかし、言葉の格闘技の場合は、この当たり前をすっかり忘れてしまうのだ。

次回はマネジメントの科学と心について考えていく予定です。[2014年10月1日]
     

『考えの異種格闘技と意思決定(前)』 (vol.23)

「この数か月だいぶ売上が落ち込んでいるな。」「申し訳ありません。」「反省だけならサルでもできるんだよ。どうするか考えるんだ、考えるの。」「はっ、顧客ニーズを把握するための情報収集をします。」「そんな時間はないよ、ない。」「競合他社の動向を分析して当社の戦略を考えます。」「そんな正論はいらないんだよ。」

「ちゃんと考えている奴はいないのか。」「え〜、今まで売れた時期に何をしていたか調査します。」「ち、違うでしょ。」「す、すみません。」「俺の長年の経験から言えば答えは分かってるんだよ。」「教えてください。」「だからさ〜、こんなときは気合いしかない訳よ。シンプルに考えなさいよ。」「仰せのとおり。。」

マネジャーは”ダースベイダー化”している。新人時代はもっと素直な気持ちで、何でも吸収しようとしていたはずだ。どこかで間違ってダークサイドに落ちてしまった。正しいのは自分で、間違っているのは他人だ。なんでこんな簡単なことが分からないのか。分かるまで教え込まなければならないのか。マネジャーはつらいよ。

マネジャーは部下を育てようと、自らの長年の経験に基づいた営業手法を熱く語りながら教え込んだ。数カ月が経ち、売上が上がる気配はない。営業会議でマネジャーが部下に考えを求めても、誰も意見を言わなくなった。部下からすれば”自分の意見”を言えば必ず否定されるからだ。そして、会議から”自分の意見”が消えた。

「こんなにマネジャーの俺が頑張ってるのに、なんで誰も何も考えてないんだ。」「…。」「今まさに絶体絶命のピンチなわけよ、頼むからみんな必死で考えてよ。」「あの〜、マネジャーの経験をお聞きしたいんですが。」「俺の経験を聞いてどうすんのよ、自分で考えなさいよ。」「あ〜、ダメだこりゃ。(心の声)」

ドラッカーは著書『マネジメント』で意思決定についてこう言っています。
<対立するいくつもの意見をぶつけ合い、異なる視点からの対話を行い、さまざまな意見の中からひとつを選ぶことによってしか、判断は導かれない。意思決定の第一ルールは、意見の違いがないところでは意思決定はできない、というものだ。>

部下は意見を言わない、何も考えていないと愚痴るマネジャーは少なくない。しかし部下は最初から意見を言わなかっただろうか、何も考えていなかっただろうか。あるときを境に変化があったはずだ。マネジャーに自分の意見を聞いてもらえないと確信したときだ。それがいつなのか部下は知っている。マネジャーが知らないだけだ。

自分は正しくて他人は間違っている、と思うのは考えてみれば普通のことだ。少なくとも自分は正しいと思えなければ、何かをするときに自信は生まれない。自分は間違っていると思って何かをすることがあるだろうか。しかし自分が正しいと思い込むことと、自分が正しいかどうかということは別のことだ。ここが危うくなる。

自分は正しいと思い込んで行動するが、本当に正しいのだろうか。もしかしたら間違っているかもしれない。もっと正しい考えがあるのではないか。こう自覚できるかが、危うさを乗り越える鍵となる。まずは自分自身を自覚的に反省できるか。それができれば、他人も正しいかもしれないし間違っているかもしれないと考えられる。

自分が正しいかもしれないし間違っているかもしれない、部下が正しいかもしれないし間違っているかもしれない。そうマネジャーが気づくことができたとき、営業会議での部下への接し方は180度変わるだろう。自分とは違う部下の意見をもっと聞きたくなる。今までの部下へイライラは、部下の考えへの興味へ変わるはずだ。

ドラッカーは著書『マネジメント』で意思決定についてこう言っています。
<意思決定に秀でた人は、「ある行動だけが正しく、他はすべて間違っている」などという前提から出発することはない。「自分は正しく、彼は間違っている」という発想とも無縁である。むしろ、なぜ人によって意見が違うのか、その理由を懸命に探ろうとする。>

人によって意見が違うのが無意識で分かっているから、それを整理するのが面倒くさくて、人は他人の意見を聞こうとしないのかもしれない。人それぞれが正しいと思い込んでいる意見のぶつけ合いは、まさに考えの異種格闘技だ。マネジャーの役割は、異種格闘技から価値ある意思決定を創造するプロデューサーになることだ。

次回は引き続きマネジャーの意思決定について考えていく予定です。[2014年9月16日]
     

『コミュニケーションは芽生えるか(後)』 (vol.22)

「当社の経営理念は、お客様に心地よい生活を提供することです。」「はぃはぃ、いい加減聞き飽きてますよ~。(心の声)」「ひとりでも多くのお客様に心地よい生活を提供することが当社の使命です。」「今日の昼飯何にしようかなぁ。(心の声)」「心地よい生活とは、1日ごとにストレスがリセットされるという意味です。」「今日はサッカーの試合観戦だ、定時に帰っちゃうぞ~。(心の声)」「それでは朝礼終わります。」

Aマネジャーは社長から「経営理念についてもっと部下とコミュニケーションを取れ。」と言われ、毎朝の朝礼で部下に経営理念の説明をしている。毎日部下に説明しているうちに、マネジャーも経営理念の意味が腑に落ちてきた。そうか、そうだったのか。部下とコミュニケーションを取ってよかった。部下も心から理解しているはずだ。

ドラッカーは著書『マネジメント』で知覚と概念についてこう言っています。
<人間が何かを学習する際には、知覚と概念は分かちがたく結びついている。概念なくして知覚は成り立たず、知覚なくして概念は成り立たないのである。受け手が知覚できないなら、つまり受け手の知覚範囲に入っていないなら、その中身をコミュニケーションするのは不可能である。>

部下には”経営理念”という概念が知覚できていない。経-営-理-念という4文字が文字列としてインプットされるが、そこに意味は伴わない。前回のコラムで、コミュニケーションとは言葉の意味を共有することだと定義した。言葉の意味を共有するためには、その前提として言葉の概念を共有している必要がある。

”経営理念”のように抽象度が高い言葉は、特に注意する必要がある。言葉そのものはシンプルなために、自分勝手な思い込みで概念が捉えられやすい。現在の待遇に不満を持っている社員は、そこから目を逸らすための方便だと思い込んでいるかもしれない。そこに何度経営理念の説明をしても、本質的な意味は届かない。

ドラッカーは著書『マネジメント』で期待と知覚についてこう言っています。
<わたしたちは原則として、自分が期待する事柄しか知覚しない。おおむね、見たいことを見て、聞きたいことを聞くのだ。期待外の事柄はほとんどまったく受けとめられない。目や耳に入ったとしても無視される。あるいは、期待どおりの内容だと誤った受けとめ方がされるのだ。人間の心は、自分が受けた印象や刺激を、期待という枠組みにはめ込もうとするのだ。>

これは「占いはなぜ当たるのか?」の答えに共通するものがある。占い師は当たりもはずれも含めてたくさんの話をする訳だが、相談者は自分が期待する話しか聞いていない。だから、占いは必ず当たる。しかし、それで元気が出るのが占いの本質であって、当たりはずれが本質ではないのだろう。今日も元気をもらいに占い師のもとへ。

相談者と占い師の間には受け手主体のコミュニケーションが成り立っている。ある相談者がひいきにする占い師は、自分にとって当たりが多い占い師だろう。当たりが多いということは、相談者が何を期待しているか想像する能力が高いということだ。占いを受けて納得する感覚は、コミュニケーション成立のヒントになる。

占いは、常に相談者からコミュニケーションがスタートする。最初に相談者の期待から始まるから、占い師はその期待を満たすという行為が可能になる。占いに期待を持たない人には、どんなに素晴らしい占いをしても無視されるだろう。経営理念に期待のない部下に熱っぽく経営理念を説明しても、無自覚のまま無視されてしまう。

ドラッカーは著書『マネジメント』で上意下達についてこう言っています。
<上意下達によって伝えられるのは、命令、すなわちあらかじめ決められた合図だけである。モチベーションは言うに及ばず、理解にかかわる事柄は、トップダウンによっては決して伝えられない。そのような内容を伝えるためには、知覚する側から知覚を誘おうとする側への、ボトムアップ型のコミュニケーションが求められる。>

経営理念の意味を伝えたいならば、まず最初に部下に問いかけなければならない。「君は当社の経営理念についてどう思うか?」、「当社の経営理念はどんなことを言いたいのだと思うか?」、「君が当社の経営者だったらどんな経営理念がふさわしいと思うか?」…。ボトムアップの質問から、コミュニケーションが胎動をはじめる。

次回はマネジャーの意思決定について考えていく予定です。[2014年9月1日]
     

『コミュニケーションは芽生えるか(前)』 (vol.21)

「Aマネジャー、部下とコミュニケーションを取っているのか?」「えぇ、最近は取りすぎかなっていうくらいですよ。」「どんな風に取ってるんだい?」「とにかく営業は熱い思いでぶつかれ!と1日10回はメンバーに言っていますよ。」「それで部下は何て言っているんだ?」「頑張ります!と秒速で返してくれますよ。」

コミュニケーションを取るということは、表面的には自分がいて相手がいてお互いに言葉を交わすことに違いない。しかし、その二人が裏側で何をしているかは目に見えない。目に見えないことを説明するのは難しい。それでは”コミュニケーションを取っている状態”とは、二人の間で何が行われるときのことを言うのだろうか。

二人の間に言葉が交わされることを表現する英単語は少なくない。talk(話し合い、相談)、conversation(会話、対談)、chat(おしゃべり)、gossip(うわさ話)、dialogue(対話)、discussion(討議、議論)、debate(討論、議論)、argument(議論、口論)、そしてcommunication(伝達、意思疎通)。

communication以外の単語は、二人の間の雰囲気がなんとなくイメージできる。しかし、communicationだけはその場の雰囲気をイメージしにくい。communicationという概念は、それ以外の単語よりひとつ下の階層にあるいわばOSのようなものかもしれない。例えば、communicationが機能したうえでtalkをしているという風に。

ジーニアス英和辞典によれば、communicateの原義は”他人と共有する”ことだ。ならばコミュニケーションを取るとは、自分と相手が言葉を共有することだろう。さらに言えば、言葉の意味を共有することだ。「コミュニケーションを取っているか?」は、「相手と言葉の意味を共有しているか?」と言い換えられるということだ。

ちょっと世間を見渡してみれば、お互いに言葉の意味が共有されないまま永遠と会話が続いている場面を見ることができる。見事に会話が空回りしながら会話が続いていくという場面があると、コミュニケーションを超えた何か(神業)と思えることがある。そこでは会話は成立しているが、コミュニケーションは成立していない。

ドラッカーは著書『マネジメント』でコミュニケーションについてこう言っています。
<コミュニケーションの主体は受け手である。いわゆる”発信者”はコミュニケーションをしているわけではなく、ただ言葉を発するだけなのだ。誰にも聞いてもらえないならコミュニケーションは成り立たず、発信者が口にした言葉もただの雑音にすぎない。>

コミュニケーションを取ることができるかどうかは、発信者が主体でなく、受け手が主体であるかどうかにかかっている。しかし、コミュニケーションを取ろうとする側は発信者であることがほとんどだから、(発信者である)自分がどうするかを考えててしまう。本当は、受け手のことを想像することから始めなければならない。

ドラッカーは著書『マネジメント』でさらにこう言っています。
<相手、つまり受け手の言葉を使わないかぎり、コミュニケーションンは成り立たない。しかもその言葉は、経験に根ざしたものでなくてはいけない。このため、言葉の意味を人々に説明するのは無駄な試みである。経験に根ざしていない言葉は受けとめようがない。>

コミュニケーションを取ることは、自分主体をやめて受け手主体に意識を逆転させ、自分の言葉でなく受け手の言葉を使うことからはじまる。コミュニケーションとはマーケティングなのであった。マネジャーならば部下の立場で考え、部下の言葉で語る。そう部下(受け手)に感じられたとき、コミュニケーションが芽生えはじめる。

次回は引き続きマネジャーとコミュニケーションについて考えていく予定です。[2014年8月19日]
     

『リーダーシップは発揮できるものか』 (vol.20)

「Aマネジャー、ちょっといいかな。」「はい。」「このところ君のチームは元気がないし、成績も落ちているじゃないか。」「う、その通りです。」「もっとリーダーシップを発揮してもらわないと困るよ。」「頑張っているつもりですが。」「つもりじゃダメなの、もう一度勉強してちゃんと実践しなさい。」「は、了解しました。」

「リーダーシップを発揮するって、よく考えると何をしたらいいのかわからないな。」「すいません、リーダーシップの本はどこですか?」「こちらです。」「うゎ、こんなにあるのか。」「おぉ。あったぞ『サルでもわかるリーダーシップ』これでバッチリだ。」「どれどれ、さすがにわかりやすいぞ。リーダーシップ簡単じゃん。」

「ちょっとさぁ、最近のAマネジャーうざくね。」「うん、何かとビジョン、ビジョンってうるさいし、やたらとハイテンションなんだよね。」「必要以上にまとわりついてくるし、ほっといてって感じ。」「なんか変な本でも読んじゃったかなぁ。」「流行りもの好きだし、影響されやすい性格だもんな。」「はぁ。」

「Aマネジャー、ちょっといいかね。」「はっ。」「リーダーシップを発揮しているのか。」「えぇ、チームのビジョンを描いて、チームの目標を示して、メンバーに支援的に関わっているので、完璧に近いはずです。」「ふむ、しかしチームの活気はさらに落ちているぞ。」「そんなはずは。」「リーダーシップをしっかり発揮せい。」

なぜリーダーシップの教科書どおりに、リーダーシップに必要な条件を実行しているのに、全く効果がないのか。さらには逆効果になってしまうのか。これはリーダーシップに関して書かれたものが、分析的に書かれたものしかないからだろう。最初にリーダーシップが発揮された状態があって、その条件を後付けで分析している。

リーダーシップを発揮しているリーダーは、ビジョンを語り、目標を示し、メンバーに支援的に関わっているかもしれない。しかしこれは、リーダーシップを発揮しているという全体が先に合って、それを具体的な行動という部分に分解している。細胞を集めても人間をつくることはできないのと同じで、部分から全体をつくることができない。

分析的にわかった具体的な行動を積み重ねただけでは、リーダーシップを発揮することはできないのではないか。しかし実際に具体的な行動がなければ、リーダーシップは実現しないだろう。この全体と部分の断絶は、どうしたら乗り越えられるのか。リーダーシップは”発揮する”のでなく、”発揮される”と考えたらどうだろうか。

リーダーシップが発揮されているときは、メンバーが誰から命令されることなく、自分からリーダーについていきたいと思っている。リーダーから見ると、リーダーシップの発揮は受け身だ。メンバーがリーダーにリーダーシップを感じたから、結果としてリーダーがリーダーシップを発揮した状態になる。

そうであれば、リーダーシップはマーケティングだ。ここにメンバーが共感できるビジョンがある、ここにメンバーが魅力を感じる目標がある、ここにメンバーが期待するサポートがある。そうメンバーに思わせることができるかどうか。

部分から入って、ビジョンをつくろう、目標をつくろう、支援的に接しよう、と試験の答を出すように個別に考えていけば、自分の中に全体はない状態で進むことになる。自分で全体が見えていないのだから、相手にも全体が見えない。全体が伝わらなければ、何をしたいのか意味が伝わらない。無理やりな”わざとらしい”感じになる。

チームの全体が見えているとは、チームの将来像がはっきりと具体的にイメージができて、すとんと腑に落ちている状態だろう。腑に落ちていれば、ビジョンや目標やメンバーとの接し方などはそこから自然に出てくる。GUTS(腸=腑)も出てくる。リーダーシップは方法で発揮するのでなく、腹からガッツで発揮させるのだ。

次回はマネジャーとコミュニケーションについて考えていく予定です。[2014年8月4日]
     

『新監督人事と日本的な組織(W杯から)』 (vol.19)

「今期からスタートした新体制の組織だが、うまく機能しなかったようだな。」「そうですね、来期は大胆に組織体制を変更しましょう。」「組織図は考えてある。」「あとは誰に任せるかですね。」「それぞれ誰が適任か、君の意見を聞かせてくれ。」「新設のマーケティング部門は、マネジャーがAさん、リーダーがBさん…」

組織を変えようとするとき、部門名を組み合わせた組織図をつくり、それぞれの部門の階層ごとに最適なメンバーを配置する。このプロセスで重要な論点は、”誰をどこに配置するか”になる。組織の機能は部門名までで思考が止まっていて、各部門の機能は”なんとなく”共有されている。この共有の感じは”あうん”の呼吸に近い。

例えば、”営業部門は売上と利益を上げることが仕事だ”という共通の認識があり、それ以上具体的な議論をすることがなく、そこに問題を見出す人も少ない。誰も疑問を抱くことなく、”誰をどこに配置するか”の議論が白熱する。属人的な視点で組織がつくられていくのが、日本の組織の特徴といえる。

高度経済成長の時代に、日本の組織でほぼ完璧に機能したのが、終身雇用と年功序列のしくみだ。終身雇用は、全ての社員が新卒から定年まで在籍するのが前提のため、その人を中長期的にどう活かすかという属人的な視点になる。年功序列は、年功を価値観として、誰が上か下かという序列が関心事となるため、やはり属人的な視点になる。

成熟経済と少子高齢化により、終身雇用と年功序列が成り立つ条件はなくなり、成果主義がその救世主となるはずだった。成果主義は結果で給与を決めるしくみだ、と世間では認識されている。しかしその本質は、組織を属人的な視点で捉えるのでなく、組織を仕事の成果という視点で捉えるという、いわば組織の運営方針(主義)だ。

本来の成果主義では、”この組織にとって成果とは何か”を考えることが、最も重要なプロセスになる。論点が人から組織そのものに移っている。これが意味することは、”科学することができる”ということだ。人の精神は目に見えないし、測定できないから科学の対象にはならない。(ゆえに、科学は脳を精神とみなして脳波を測定する。)

人の精神は他人が覗いたり測定したりすることは絶対にできないので、完全にひとりの人の中に閉じている。一方で組織は、これも目に見えないものではあるが、複数の人がひとつの対象として抽象化し、共有することができる。理屈はそうなのだがうまくいかないのは、日本人が持っている属人的に組織を捉える傾向なのかもしれない。

サッカー日本代表のブラジルワールドカップ一次予選敗退が決まってすぐに報道されたのが、新監督の人事であった。スポーツ新聞一面には”○○ジャパン誕生!か”。それまで熱狂的に報道されていた”ザック・ジャパン”のザック監督は、もはや過去の人的な郷愁を漂わせて、ひとり寂しく帰国の途についてしまった。

ワールドカップ開催前からメディアの関心(=世間の関心)は、監督の人柄や実績、各選手の人柄や実績に向けられていた。誰が代表選手に選ばれるのか、誰を代表選手にするべきか。大会開催後は、誰が出場するのか、誰を出場させるべきか。チームの組織としての戦略や戦術の問題よりも、属人的な問題が論点になっていた。

日本軍の組織論的研究論『失敗の本質』(6名の共著)にはこう述べられています。
<およそ日本軍には、失敗の蓄積・伝播を組織的に行うリーダーシップもシステムも欠如していたというべきである。(中略)失敗した戦法、戦術、戦略を分析し、その改善策を探求し、それを組織の他の部分へも伝播していくということは驚くほど実行されなかった。これは物事を科学的・客観的にみるという基本姿勢が決定的に欠けていたことを意味する。>

ブラジルワールドカップで日本代表が一次リーグで敗退し、その原因と課題を分析するようなメディアの議論はなく、新監督人事が一番のトピックとなった。メディアが何を報道をするかは、世間が何を求めているかとほぼ同意だ。この現象は、日本人の組織に対する意識が組織そのものでなく、人に向かっていることの象徴ではなかったか。

ドラッカーは著書『マネジメント』でマネジャーの資質についてこう言っています。
<「何が正しいか」よりも「誰が正しいか」により大きな関心を持つ人物も、マネジャーの地位につけるべきではない。仕事に求められる要件よりも人物を重視するのは、堕落であり、部下をも堕落させる。>

日本人はもともと属人的に組織を捉える傾向を持っているようだ。大事なことは、その傾向を改善するというよりも、そのことを自覚したうえで、組織を客観的な対象として捉えていくことだろう。何事も視点を変えることで、違った姿を現してくる。「誰が正しいか」ではなく、「何が正しいか」の視点で組織を見つめ直すことが大切だ。

次回はマネジャーとリーダーシップについて考えていく予定です。[2014年7月14日]
     

『意識とゴール前の横パス(W杯から)』 (vol.18)

「サッカー日本代表のブラジルワールドカップが終わった。対戦相手に比べて日本の選手はゴールの意識が不足していたな。」「そうですね。ゴール前の横パスにはイライラしましたね。」「ところで前月の売上目標は達成できたかな?」「すみません。厳しい状況です。」「攻める意識が不足してるんだよ。」「はい、意識して頑張ります。」

ノーレットランダーシュは著書『ユーザーイリュージョン(意識という幻想)』で研究者リベットの実験から以下のように述べています。
<意識が生じるにはほぼ0.5秒の脳活動を必要とする。これは、感覚経験であれ意思決定であれ変わらない。前者の場合、主観的時間の繰り上げが起きるため、感覚刺激の発生時点で自覚が生じたように感じられる。後者の場合、意思決定がプロセスの第一段階として感じられ、その前に起きている約0.5秒の脳活動は意識されない。>

人間が”意識して”行動するとき、実際はその0.5秒前に無意識が動き出し、意識は無意識に0.5秒遅れてそれを認識する。しかも、意識は時間調整を行って、無意識が動き出した時間に”意識をした”のだと錯覚させる。自分で意識して決めたと思っていた行動は、0.5秒前に無意識が決めた行動を後追いで意識が認識している。

組織で問題が発生したとき、再発防止のしくみや新たなルールなどの解決策を導入するのが通常だ。しかし、それを実行するのは”意識する”人間である社員だ。最後は「同じ問題を繰り返さないように”意識して”行動しよう。」と宣言して終わるのは間違っていない。しかし、”意識して行動する”はほとんど実行されずに終わる。

無意識が意識より先行するならば、意識をどうするかではなく、無意識をどうするかを考えなければならない。無意識は意識できないから無意識なのだから、意識では解決できないということだ。ではどうするか。行動を変えるためには、自転車に乗れるまでのプロセスのように、無意識で動けるまで、頭よりも身体を使って繰り返し練習する。

『ユーザーイリュージョン』では以下のように述べています。
<リベットの実験結果は、私たちに自由意思はない、と言っているのだろうか。意識以外に、自由意思を行使できるものはありえないのだから。手を伸ばして物を取ることを決めたと思ったときは、すでに脳が活動しているのだとしたら、人間に自由意思があるとは言いがたい。>

たしかに、人間は無意識に従って行動していて、意識はそれを後追いで認識しているのかもしれない。毎年夏休み前に宿題の計画を立て、例外なく8月下旬を憂鬱な気分で迎える。意識は早く宿題を済ませようと意気込むが、身体がついてこない。ダイエットを強く意識するも、気がついたら食べている。無意識の勝利、意識の敗北。

『ユーザーイリュージョン』では以下のように述べています。
<意識が生じるのは脳が動いた後かもしれないが、それは手が動く前でもある。決意を意識してからそれが実行に移されるまでには0.2秒の余裕がある。だとしたら、意識はどうにかして実行を中止できるのではないだろうか。(中略)意識は行為を起こすことはできないが、実行してはいけないという決断はできるのだ。>

意識が無意識の動きを意識するまで0.5秒かかるが、まだ続きがあった。意識してから行動に移るまで0.2秒かかる。意識はそれを実行に移すかどうかの決断をすることができる。意識は無意識に対して、提案はできないが拒否権だけは持っている。

無意識に任せればうまくいったかもしれない行動を、意識が判断して否定することがある。ブラジルワールドカップ日本代表は、初戦から”絶対に負けられない戦い”とメディアに追い込まれ、誰もがゴールを”意識して”いたはずだ。普段通りに”無意識に”動いていればゴール前で自然とシュートできたが、強い意識が瞬間的に無意識のシュートを否定して、横パスを選択してしまったのかもしれない。

意識が拒否権しか持たないならば、仕事における問題解決の場面でも「意識して頑張ろう」「強い気持ちで行こう」という結論だけでは、逆説的に失敗を招きそうだ。頭の意識より先に、身体の無意識をどう訓練するか(どうしたら意識しなくても望ましい行動が常にできるようになるか)をテーマに議論する必要がありそうだ。

次回はマネジャーとリーダーシップについて考えていく予定です。[2014年7月1日]

『マネジャーは何を仕事にする人か(後)』 (vol.17)

「マネジャーの仕事はチームの時空を創り上げることか。」「そうだ、相対性理論なのだ。」「時間と空間が一体になっている?」「時間軸の側だけでも、空間の側だけでも足りないのだ。」「アインシュタイン。。」「しかし実際は、どちらか得意な方でチームをマネジメントしているマネジャーが多いのだ。」「ニュートン。。」

今しか存在しない現実に時間軸をつくることは、その今に意味を与えることだ。人間は意味を感じてしまう生き物だ。意味を感じないところに、情熱やモチベーションは生まれない。意味は時間の流れの中にある。逆に言うと、人は時間の流れを感じることができるから、意味を感じることができる。

仕事に意味を感じられるのは、人間だけかもしれない。他の生き物は(聞いてみなければわからないが、人間が言葉で意味を感じるとすれば)時間の流れを感じることなく、意味を感じることなく、今の瞬間だけを感じているようにみえる。人間はときどき先祖に戻って、仕事に意味を感じなくなる。マネジャーは仕事に意味を蘇らせる。

まずは時間軸をつくるために、未来をセットする。そうすると未来と現在の間に一本の線ができる。未来から現在への時間軸ができれば、その延長線上に過去の意味が浮き上がってくる。夜空に輝く無数の星から、ひとつの線で星座が浮き上がる。意味は初めからあるのではない。マネジャーは無限の可能性から、意味をひとつに固定させる。

ドラッカーは著書『マネジメント』でマネジャーの仕事についてこう言っています。
<マネジャーの仕事は5つの基本要素からなる。それらの歩調が揃うと、さまざまな経営資源がひとつにまとまり、生命体のように成長していくのだ。@目標設定、A組織づくり、B動機づけとコミュニケーション、C業績評価、D人材育成である。>

マネジャーが時間軸をつくる仕事として、未来をセットするのが@目標設定、過去の意味づけをするのがC業績評価だ。時間軸は演劇でいえば、脚本と舞台セットだ。その中で心を持った人間が役を演じる。演劇の空間は配役と役者の演技でつくられる。そして役者の潜在力を最大に引き出す演出が、最高の空間を創り上げる。

マネジャーが空間をつくる仕事として、脚本に合う配役を決めるのがA組織づくり、それぞれの役者への演出がB動機づけとコミュニケーションだ。マネジャーは時間軸と空間をつくる作業を通して、チームの物語を創り上げる。チームに物語ができるから、その物語に参加したいと動機づけられ、物語について話し合いたくなる。

演劇作品の企画ごとにオーディションを行う場合は、その都度作品に最も適した役者を募集する。しかし企業の場合は、既にいる社員の中から配役を選ばなければならない。固定メンバーで公演を行う劇団のイメージだ。そこでD人材育成が必要になる。今いるメンバーがどれだけ成長できるか。そこに劇団の成功がかかってくる。

ドラッカーは著書『マネジメント』で5つの基本要素についてこう言っています。
<目標設定、組織づくり、動機づけとコミュニケーション、業績評価、人材育成は、あくまでも形のうえでの分類である。それらに魂を吹き込み、具体的で意味あるものにするものは、マネジャーの経験(experience)だけだ。>

"experience"は若干強引だが、"ex"+"peril"に分けることができる。危険(
peril)を超える(ex)。経験とは、あえて危険に挑んで掴み取るものである。マネジャーの仕事は、は5つの基本要素を形式的にこなすことではない。守りよりも攻めの姿勢で積極的にリスクを取り、自らの仕事に魂と意味を注入しなければならない。

次回はマネジャーとリーダーシップについて考えていく予定です。[2014年6月16日]

『マネジャーは何を仕事にする人か(前)』 (vol.16)

「今期から念願のマネジャーになりました。」「おめでとう、ぜひ頑張ってくれたまえ。」「でもマネジャーの仕事がうまくイメージできないんです。」「それは正しい悩みだよ。」「はぁ。」「マネジャーはすべきことが多すぎて、なかなか一言で要約できないのだ。」「ふむ。」「だが自分なりのイメージを持つことはすごく重要だ。」

「自分なりにイメージしていいんですね。」「多くのすべきことをおさえた上でだよ。」「やはり。」「まずはドラッカーのマネジメントを読んで、自分なりの考えを教えてほしい。」「わかりました。」「全部覚えようとすると挫折するから、自分なりに焦点を絞って仮説をつくること。その後は、やりながら修正していけばいい。」

「マネジャーの仕事は何か?」と改めて聞かれると、一言で答えるのはなかなか難しい。現代のように複雑化した環境では、マネジャーのすべきことも複雑になっている。にもかかわらず、“肩書=仕事”の文化は根強く生きている。「お仕事は?」「営業部長です。」人材市場では、失業率が高くても常にマネジャーが不足している。

日本の高度成長を支えた年功序列の置き土産だ。年功序列の文化では、仕事の内容よりも序列の格付けに関心が向かう。”マネジャーは何を仕事にする人か”よりも、”マネジャーになるかどうか”が重要な主題だ。序列の呪縛はなかなか解けない。ニーチェは人間の本質を”権力への意思”だと喝破したが、序列の既得権は居心地がよいものだ。

組織を序列の呪縛から解くためには、序列でなく役割と責任の視点で仕事を捉え直す。仕事の違いは序列の違いではなく、役割と責任の大きさの違いであって、そこに上下はないという文化を築いていく。マネジャーの仕事を考えるだけでも、相応の時間が必要になる。しかし、変えようと意図しなければ、根付いた文化は変えられない。

マネジャーは何を仕事にする人か。まずは大きな視点から捉えて、全体像を俯瞰する。グーグルマップを拡大していくようなイメージで、大きな仕事のイメージから実際的な仕事内容へつなげていく。

ドラッカーは著書『マネジメント』でマネジャーの仕事についてこう言っています。
<マネジャーの具体的な仕事はふたつある。ひとつは、個を全体としてまとめあげ、個の総和以上の生産性を引き出す仕事である。ある意味これは、交響楽団の指揮者の役割に似ている。指揮者の努力、ビジョン、リーダーシップが各セクションに息吹を与え、全体として調和のとれた演奏を実現する。ただし、指揮者が作曲家が書いた楽譜に頼り、それを解釈しているにすぎないのに対して、マネジャーは作曲家と指揮者、両方の役割を兼ねているのだ。>

マネジャーは作曲家と指揮者、両方の役割を兼ねている。楽譜を与えられて指揮をするのは、ピラミッド組織でトップの指示を部下に伝える中間管理職のイメージだ。マネジャーは作曲家でもあるので、自分のチームがどんな交響曲を奏でるか、各メンバーはどんなパートを演奏するかを考えなければならない。

各メンバーにはそれぞれの具体的な役割(パート譜)を示しながら、チーム全体として生み出すべき具体的な成果(曲全体)のイメージを共有させる。マネジャーが自らのチームをプロデュースする感覚だ。メンバー個々のキャラクターを光らせて、チーム全体として売れるオーケストラに育てあげる。マネジャーの役割はプロデューサーに近い。

ドラッカーは著書『マネジメント』で続いてこう言っています。
<マネジャーの仕事のふたつ目は、判断を下したり、行動を起こしたりする際には必ず、当面と将来の要請をうまく調和させる、というものである。>

チームが今売れるために何をするか考えるのと同時に、将来も売れているために何をすべきかを考えなければならない。アイドルグループなら人気が最高潮に達した今そのときに、将来に向けてあえてメンバーを入れ替える。成功しているときに、何かを変える判断は下しにくい。しかし、今の成功が永遠に続くことはあり得ない。

マネジャーがオーケストラから最高の演奏(チームから最高の成果)を引き出せたとき、マネジャーはそこに最高の空間を創り上げたといえる。また、現在と将来をうまく調和させられたとき、マネジャーはそこにチームの時間軸を創り上げたといえる。マネジャーの仕事を大きく捉えれば、それはいわばチームの時空を創り上げることだ。

次回は引き続きマネジャーの仕事について考えていく予定です。[2014年6月2日]

『目標管理とセルフコントロール(後)』 (vol.15)

「スポーツは何かやってます?」「マラソンやってます。」「えっ、マラソンって1人でひたすら走るだけのあれ?」「えぇ、まぁ。そう言われればそうですね。」「せっかく身体動かすならスポーツのほうが面白いでしょ。」「まぁ。」「毎週末テニスやってるんで一緒にやりませんか?マラソンよりスポーツのほうが楽しいですよ。」

人が何かを考えるとき、前提がなければ考えることはできない。わたしたちは、知らず知らずのうちに前提を置いて話している。”マラソンはスポーツだ”という前提のAさんと、”マラソンはスポーツではない”という前提のBさんの間では、前提の違いが意識されないかぎり会話がかみ合わない。

前提は無意識に置かれるため、自分が前提を置いて話していることに気づかない。コミュニケーションの成立を難しくしている要因のひとつだ。ほとんどの場合、「なんでわかんないかな。なんでわかってくれないかな。」と一方的に思い、最後にはしかたなくあきらめる。いわゆる”バカの壁”が立ちはだかる。

「目標によってセルフコントロールできればマネジメントできるのか。よし、明日から実践しよう。」「えー、今までは目標管理で目標と実績の差を厳しく追及しましたが、今日からはやめます。みんな自分で自分の行動をコントロールして、目標達成してください。これが本来の目標管理です。」「あの鬼の追及がなくなるのか。ヤッホー。」

「毎週の営業会議に代えて、月末の報告会をはじめます。会議が減って営業の時間も増えたし、いい結果を期待してるよ。」「え〜、今月の目標達成度は50%です。」「え〜、今月の目標達成度は40%です。」「バカヤロー、達成度が落ちてるじゃないか。自分の行動をコントロールしたのか?」「はい、自分で優先順位つけて動いてます。」

実際には毎週の行動プランの厳しいフォローがなくなったことで、ほとんどの営業マンは行動の質と量が落ちていた。行きやすい顧客だけ訪問し、本来訪問すべき厳しい顧客へは行かなくなった。社員にはセルフコントロールという部分だけが聞こえてきた。「人は自分の聞きたいものしか聞かない。」2000年前にカエサルはつぶやいた。

ここには”目標を立てれば人はそこに向けて行動するものだ”という前提が置かれている。何か制度をつくるときには、人は機械のように制度についてくると考えがちだ。制度を利用するのはひとりひとり違う心を持った人間だということを忘れがちになる。コンセプトとしての目標管理の実現には、人に焦点を当てた前提が必要になる。

ドラッカーは著書『マネジメント』で目標管理についてこう言っています。
<management by objectives and self-control(目標管理とセルフコントロール)は、「人々は責任を引き受けたい、貢献したい、成果をあげたい、と望んでいる」という仮定のうえに成り立っている。>

目標管理を制度として導入してもうまく機能しないのは、この前提を見逃しているからだ。ここが方法論でなく、コンセプトであるゆえんだ。目標管理とセルフコントロールを機能させるためには、社員の仕事への向き合い方を洞察する必要がある。もし、責任や貢献、成果という言葉が心に響かないなら、本来の目標管理は機能しないだろう。

ドラッカーは著書『マネジメント』で目標管理についてさらにこう言っています。
<私は”哲学”という言葉を軽々しくは使わない。むしろ、いっさい使わずにすませたいくらいである。”哲学”はあまりに重い言葉だからだ。にもかかわらず、目標管理とセルフコントロールについては、「マネジメントの哲学」と呼ぶのがふさわしいのではないかと考えている。>

目標管理は、仕事や人を管理する手段として使われるものではない。”社員は責任を引き受けたい、貢献したい、成果をあげたい、と望んでいる”という哲学(思想)を前提として、そうしたいという意思がある(がいまくいっていない)社員が、成果を出しやすい環境をつくる手段として使われるべきものだ。

次回はマネジャーの仕事について考えていく予定です。[2014年5月19日]

『目標管理とセルフコントロール(前)』 (vol.14)

「おいみんな聞いてくれ。目標管理の意味は、”目標の管理”じゃなくて、”目標による管理”なんだって。」「あ、それなにげに有名な話っすよ。目標管理は、ドラッカーが言う”management by objectives”を訳したものですよ。」「うゎ、知ってたの。」

「ところで自分で言っておいて何なんだけど、”目標の管理”と”目標による管理”ってどう違うんだい?」「”目標を管理する”か、”目標によって管理する”かの違いでしょう。」「ちょっと何言ってるかよくわからないな。もっと詳しく説明してよ。」「はい。」

「”目標を管理する”は、管理する対象が目標ですよね。”目標によって管理する”は、管理する対象が目標とは別にあるということですよ。仕事とか人とか。」「なるほど、目標で仕事や人を管理するのか。目標と実績を比べて管理する。」「そうです。」

"management by objectives"=”目標管理”とすれば、自然と”管理”という言葉が浮かび上がる。広辞苑で「管理」を引いてみると、「@管轄し処理すること。良い状態を保つこと。とりしきること。」とある。創造的というよりは、対処的なイメージだ。

ドラッカーは著書『マネジメント』でこう言っていた。(コラムVol.1再掲)
<「マネジメント」は、ことのほか難しい言葉である。そもそもアメリカに独特の言葉であるため、他の言語にはおよそ訳しようがない。イギリス英語にすら訳せない。>

原著のタイトル『Managemet』は日本語版でもそのまま『マネジメント』だが、原著中の”management by objectives”の訳は”目標管理”だ。語呂はよいが、言葉の力は強い。なじみ深い”管理”という言葉に引っ張られる。そして、思い込みが共有される。

”目標管理”を”MBO”と略すことがあるが、ドラッカーは原著で”MBO”という略語を使っていない。”management by objectives”には続きがあって、”and self-control”がついてワンセットの概念だ。別々に使われている部分もあるが、ほぼ”managemant by objectives and self-control”と続けて使われている。

”目標によって管理する”という方法論ではなく、”目標によって自己コントロールができれば、マネジメントが可能になる”というコンセプトなのだ。やりたいのは管理ではなくマネジメントだから、”management”と”by objectives and self-control”と文節を分けるほうが主旨に合う。

ドラッカーは著書『マネジメント』でMBO&SCについてこう言っています。
<”management by objectives”は、たとえマネジメントチームの方向性や努力の対象を統一に導かないとしても、”management by self-control”を可能にするためには必要なものである。>

「今月の営業会議はじめます。○○さん、目標達成度はどう?」「え〜、今月は厳しい状況でして、達成率は60%です。どうしたらよいでしょうか?」「う〜、それを自分で考えるのが仕事でしょうよ。」「すみません、とにかく必死で頑張ります。」

上司も部下も思考停止状態だ。”目標管理”していると思い込んでいるから、思考停止に気づいていない。セルフコントロールとは、自分で考え行動することだ。目標は、マネジャーも部下もセルフコントロールして成果を出すために使われなければならない。

ドラッカーは著書『マネジメント』でMBO(&SC)についてこう言っています。
<何百もの企業が”MBO”を採用しているが、真の”self-control”を実現している例はごく一握りにすぎない。”MBO&SC”は、単なるスローガン、手法、それどころか方針をも超えたものである。いわば、基本原理なのだ。>※原著文中は略語なし

大切なのは、目標管理という”手法”を”導入”するのではないということだ。”目標管理”の実践を通じて、外からの指示命令でなく、自己の内側からのコントロールを引き出す。内発的な動機づけにより、知識労働者として自ら成果を生み出す組織文化をつくる。

”成果主義”も同じような誤解を受けやすい。成果主義という”制度”を導入するのではない。主義とは、異なる考え方ができるときに何を重要と考えるかだ。例えば、序列よりも成果を重要とする組織文化が成果主義だ。制度は、組織文化をつくるための手段だ。

次回は引き続き目標管理と自己管理について考えていく予定です。[2014年5月2日]

『組織階層と知識労働者の卵とニワトリ』 (vol.13)

「それでは社長、新年度スタートの挨拶をお願いします。」「え〜、今年度から当社はフラット組織に変えます。現在は社長以下、事業部長、部長、課長、係長、担当と6つの階層ですが、社長、事業部長、係長、担当の4階層にします。これからはトップダウンの指示命令型組織でなく、現場でスピーディに動く自律組織の時代です。」

「うわ、またはじまったよ社長の思いつき。」「確かに。でも最近トップダウンの指示通り動いても結果出ないしな。」「フラット組織の時代ってのは間違ってなさそう。」「今までの無駄な稟議の時間もなくなるし。」「現場は自由に動けてよさそうだ。」

市場の主導権を企業が持っていた時代は、答えをトップが持っていたから、それを確実に末端まで指示することが組織の使命であった。しかし、顧客を創造することが組織の使命になった現代は、答えは顧客に近い社員が持っている。ピラミッド組織であることに必然性はない。裏返せば、フラット組織が必然になってくる。

ドラッカーは著書『マネジメント』で組織階層についてこう言っています。
<基本ルールは、マネジメント階層をできるかぎり減らし、指揮命令系統を最短にすることである。よけいな階層があると、相互理解が妨げられ、共通の方向を目指せなくなる。階層が増えるたびに目標が歪められ、注意が散漫になる。>

指揮命令系統を最短にすること。よけいな階層がないこと。うっかり流してしまいそうになるが、「最短に」「よけいな」という言葉は、少し考えると「どんだけ〜」と思わず唸ってしまう。形容詞はくせものだ。政治家のうまい演説には形容詞がほとんどないものだ。

フラット組織に変わって3ヶ月後が経過した。新たな事業部長はマネジャー、係長はリーダーと呼ばれている。「マネジャー、問題が発生しました。どうしたらよいでしょうか?」「マネジャー、大変です。至急指示をください。」「マネジャー、お客さんが鬼おこぷんぷん丸です〜。」「マネジャ〜、助けて〜。」リーダーは叫ぶ。

マネジャーの携帯電話は鳴りやまない。肉体的にも精神的にもパンク寸前だ。「社長、夢のフラット組織が変なんです。現場が回らず、カオスに陥ってます。」「なんだって?フラット組織にしたんだから、現場で素早く対応できるはずだろう。」「でも現場は逐一指示を求めるんです。」「なるほど、そういうことか。」「はぁ〜。」

「組織図よりも実体が先だと知って、フラット組織の動きは頭の中で何度もシミュレーションしたのだ。そこでの係長の役割は明らかだった。現場スタッフに指示するのではなく、自ら問題解決する現場スタッフを支援することだ。」「はい。」「しかし、頭の中だけが実体ではない。頭と身体が一体となって実体なのだ。」「はぁ〜。」

「つまり、フラット組織に”する”のではなく、フラット組織に”なる”ということだ。」「といいますと?」「順番としては、現場リーダーとスタッフのチームが自律的に動いていることが先で、そうすると指示が必要なくなるから、その結果としてトップの指示を現場に伝える中間管理職がいらなくなる。」「お〜。」

「頭の中は自律的に動くべきだとわかっていても、身体は指示待ちの習慣が身についている。だから問題が起こるような事態になると、どうしたらよいかわからず指示を仰いでしまう。」「そうだ。フラット組織は一旦もとに戻して、まずは自ら問題解決できるリーダーの育成に取り組むことにしよう。」

ドラッカーは著書『マネジメント』で労働者の分類についてこう言っています。
<就労者はすべて知識労働者と肉体労働者のどちらかに色分けできるかというと、そうではない。>

知識労働者はホワイトカラー、肉体労働者はブルーカラーといわれる。肉体労働者は、規格大量生産の工場で繰り返し同じ作業をする労働者のイメージだ。しかし、肉体を酷使しないとしても、自分の頭を使わずに他人の指示通りに動くだけならば、知識労働者とはいえないだろう。自分の頭を使って仕事をするのが知識労働者だろう。

"知識労働者"は、原著の"knowledge woker"の訳語だ。オックスフォード英英辞典によると、”knowledge”(知識)とは、”the information, understanding and skills that you gain through education or experience”(学習または経験から得た情報、理解、スキル)という意味だ。

知識を得ることは、学習から情報や理解を得ることと考えがちだ。ネットで検索する。さらに知るために本を読む。ここで水泳あるある話の出番だ。泳ぎ方の知識を頭で完璧に理解したとしても、現実の身体は泳ぐことができない。得たのは知識の片側だからだ。”experience”による”skill”を得て、はじめて水泳の(本来の)知識を得られる。

現場チームが自律的に動くためには、現場チームのリーダーとスタッフが知識労働者にならなければならない。自ら問題解決するために必要な情報を頭で理解し、それを実践で試していく中で、自分の身体にスキルを覚えさせていく。そして、自分が腑に落ちるまで積み重ね、頭で考えなくても身体が自然と動くレベルまで持っていく。

現場チームがここまで成長したとき、実質的に組織はフラットになるはずだ。”指揮命令系統を最短にする”、”よけいな階層をなくす”の答えは、結果として決まるものだ。組織階層と知識労働者の卵とニワトリは、知識労働者が先、組織階層が後といえそうだ。

次回は知識労働者と目標管理について考えていく予定です。[2014年4月15日]

『組織デザインと「動と静」の融合』 (vol.12)

「みんな、バッチリ練習してきた?」「うぃーっす。」「それじゃ、まずは新曲から飛ばしていくよん。」「1、2、3、フォー!」うん、いい感じだ。みんな忙しい中練習してきてるな。ここからが新曲最大の見せ場、ギターソロだ。あれれ、ズレてきた。

「やめ、やめ。ギター走り過ぎよ。」「えっ、全然気がつかなかった。」「気がつかなかったて、周りの音を聞いてなかったってこと?」「あ、そういえば聞いてなかった。実は練習不足で譜面を見ながら弾いててね。それで自分の演奏に集中してしまった。」

コピーバンドが初めて新曲を演奏するとき、楽譜はなくてはならないものだ。楽譜を見ればその曲の全体像と各楽器に求められる演奏方法がわかる。各パートが楽譜どおりに演奏すれば、原曲を再現できる(と思う)。しかし、それぞれが譜面どおり正確に演奏したとしても、本家が演奏したときの”あの感じ”はなかなか再現できない。

本家は最初から譜面どおりに演奏しているのではない。作曲者は1人でも、アレンジは各楽器のメンバーがアイデアを出し合い、曲の雰囲気を創り上げていく。その過程で、曲に彼らの個性がにじみ出てくる。この演奏そのものが先で、譜面は後から標準のフォームで記号化したものだ。譜面は演奏への重要な手掛かりだが、曲そのものではない。

バンドが練習するときは、自らのパートは自分の中で納得できる状態で集まり、バンドとして曲をどう仕上げるかというコミュニケーションを取るときだ。そして、自分の演奏に自信が持てるまで自主練習を積んでこの場に臨まないと、他のメンバーとコミュニケーションを取る余裕がなくなる。自分のことで精一杯になる。

ドラッカーは著書『マネジメント』で組織図についてこう言っています。
<重要なのは図ではなく実体である。図はあくまでも、人々が共通のイメージをもとに話し合いができるように、組織のつくりをごく簡単に表したものにすぎない。>

組織を設計(デザイン)するときは、設計図としての組織図が必要だ。組織図は@社員が共通のイメージをもとに話し合いができる、A組織のつくりをごく簡単に表す、ものであればいい。先にすべきは組織図をつくりにいくことでなく、組織全体の動き方と各社員の動き方(曲の全体像と各パートの演奏)をシミュレーションすることだ。

社員が組織図を見て、組織全体で何をしたくて(曲全体)、自分に求められているのはどんな動きか(自分の演奏)がリアルに想像できる。その理解の深さは問題ではない。自分なりにいったん理解したと思えることが重要だ。自分のパートはとりあえず自分のものにしたと確信できる。自分に自信を持って、迷わずセッションに臨める状態だ。

メンバーが自分に自信が持って仕事に臨めるかどうかが、チームとしてパフォーマンスを発揮できるかどうかの分かれ目だ。自分に自信があるときは、心に余裕が生まれる。他者のことを考えることができる。自分に自信がないときは、自分のことを考えるだけで精一杯になる。他者のことを考える余裕がなくなり、自己中心的になってしまう。

ドラッカーは著書『マネジメント』でプランニングについてこう言っています。
<業務の担い手の行動やニーズを知ったうえでプランニングを行わないかぎり、その中身は机上ではいかに完璧だったとしても、決して実行されないだろう。逆に、業務の担い手の側でもプランニング担当者の意図を理解していなければ、成果をあげないか、あるいは、求められる成果に対して「理屈に合わない」「勝手に決められた」「馬鹿らしい」などと反発するだろう。>

組織の実体を設計するときは、経営層が一方的に考えて社員に提示してもうまくいかない。実際に業務を担っている社員の意見を聞きながら、一緒につくっていくプロセスが大切だ。バンドのミュージシャンは、お互いにオリジナルのフレーズを取り入れていくプロセスで、曲全体と自分の一体感を得られる。アレンジが100%指定ではやる気は失せる。それなら自分でなくてもいい。

組織は人の集まりとして、日々変化し動きつづける。ひとつの組織を「こういう組織だ」と言い切ることはできない。瞬間ごとに様々な表情を現す。その組織をなんとか表現しようとすると、どこか一面を切り取るしかない。組織図や制度はそういうものだ。だから、組織の「動」に合わせて、組織図や制度の「静」を合わせていく。これを繰り返せば、少しずつだが確かに「動」と「静」が融合していくはずだ。

次回は組織階層と知識労働者について考えていく予定です。[2014年4月1日]

『「全体と部分」と組織マネジメント(後)』 (vol.11)

「うわ、また売上目標上乗せっすか?」「そうだ、君ならできる。頑張ってくれたまえ。」「だったら人を増やしてください。今のメンツじゃ限界です。」「そうか、わかった。人件費は厳しいが新人をひとり入れよう。今期の目標達成は頼んだぞ。」

「おー、君が期待の新人君か。君ならできるよ。頑張ってくれたまえ。」「はい、一生懸命頑張ります。何もわからないので一からご指導よろしくお願いします。」「おう、俺は忙しくて時間がないんだ。とにかく足を使って動くのが営業だからな。」

「いやぁ、今日の商談はタフだったな。でもいい線いってるぞ。これから二の矢、三の矢をどう放っていくか、また徹夜続きだな。あ〜、忙しい。」「そういえば新人君、営業の成果はどうだ?」「提案書つくってます。」「ちゃうよ。足を使え、足を。」

「そんなこと言われても、いきなり訪問なんて無理っすよ。」「う〜ん、それもそうだな。とりあえず君がつくった提案書を見せてくれ。」「おお、これはいい。シンプルかつ論理的で説得力がある。」「でも人と会って話すのが苦手なんすよね。」

自分と他者は違うということを本当に理解できる人はまれだ。人は自分の世界しか見ることができないから、他者も同じ世界を見ていると無意識に思っている。だから自分の基準で他者を理解してしまうのは無理もないことだ。自分ができることは相手もできるという思い込みは強い。曰く「なんでできないんだ?簡単だよ。」

ドラッカーは著書『マネジメント』で人の強みについてこう言っています。
<成果への意欲を培うためには、ひとりひとりに強みを存分に発揮させる必要がある。人材の弱みではなく、あくまでも強みに力点を置かなければならない。>

イギリスの経済学者リカードは著書『経済学と課税の原理』で、自由貿易の「比較優位説」を説いた。2つの同じ商品を生産しているA国とB国があるとする。A国はB国より2つの商品とも生産性が高い。その場合でも、A国とB国が各国内で生産性が高い方の商品に特化して生産すれば、両国全体で生産量が増えるという説だ。

リカードは英国とポルトガルの例をあげる。英国は布地1単位の生産に年間100人、ワイン1単位の生産に年間120人の労働が必要で、ポルトガルは布地1単位の生産に年間90人、ワイン1単位の生産に80人の労働が必要だとする。(布地1単位とワイン1単位は、国際市場で同じ価値がついているとする)

ポルトガルは布地とワインのいずれも英国より生産性が高いので、英国に対して”絶対優位”である。一方英国は布地とワインのいずれもポルトガルより”絶対劣位”である。”比較優位”は1国の中で比較して相対的に生産性が高い方を指す。英国内では布地がワインに対して”比較優位”を持ち、ポルトガル国内ではワインが布地に対して”比較優位”を持つ。

それぞれの国の中で比較優位を持つ生産に特化することで、全体として生産量(GDP)を最大にすることができる。英国が年間220人で布地を生産すると2.2単位できる。ポルトガルが年間170人でワインを生産すると2.125単位できる。特化する前は、両国合わせて布地が2単位、ワインが2単位だ。貿易により両国とも以前より多くの生産を得ることができる。

資本や労働が国外に移動しない前提なので、産業の空洞化が叫ばれる現代には合わない部分もある。そこは前提条件がある経済モデルの限界を認識して、うまく使えばいい。国を人、生産物を仕事と置き換えると組織マネジメントのヒントが見えてくる。

マネジャーは顧客を10件訪問するのに3時間、提案書を1部作るのに5時間かかるとする。新人は10件の訪問に10時間、1部の提案書に6時間かかるとする。マネジャーは新人に対して”絶対優位”で、新人はマネジャーに対して”絶対劣位”の関係だ。

当然だがマネジャーの方が絶対的に仕事のパフォーマンスがよい。何でも自分でやったほうがうまくいくと考えるのは自然だ。しかし組織全体でみると、それぞれのメンバーが”比較優位”(=強み)に特化することで、全体としてのアウトプットが増える。

個人仕事で2日間単純に過ごすと、マネジャーは20件の訪問と2部の提案書、新人は10件の訪問と1部の提案書となる。全体として30件の訪問と3部の提案書だ。マネジャーが自身の比較優位である顧客訪問に特化し、新人が同じく提案書作成に特化して2日間過ごすと、全体として53件の訪問と3部の提案書となる。

組織全体としてそれぞれが自身の比較優位に特化することで、提案書作成の数を減らさずに訪問を13件増やすことができた。そして、それぞれが特化した仕事に集中すれば生産性が上がり(強みがより強化され)、組織全体のアウトプットも増えていく。

人それぞれに個性があるから世の中おもしろい。人によって強みや弱みがなかったり、強みや弱みがコロコロ変わってはアイデンティティも危うくなる。その人の強みや弱みは、そうそう変わるものでないと経験は教えてくれる。また、個人の強みと弱みのどうしようもない感じは、得手不得手という言い方のほうが腑に落ちるかもしれない。

比較優位説は生産量を問題にして質に触れていないので、訪問や提案書の質はどうなんだというツッコミをいれたくなる。しかし、人間はいまだ質を測る普遍的な知恵を持ち得てない。ただ、測定できるものは大きな手掛かりになる。見つかるかぎりの手掛かりを探すことが、問題解決に近づくことだ。

水を熱し続けるとある時点(沸騰点)で突然気体に姿を変えるように、自然界では”量が質に変わる”という瞬間がある。量をこなしてはじめて、質が見えてくることもある。「なぜ組織全体の生産性を上げるために人の強みを生かすのか」という問いに対して、比較優位説は具体的なヒントを与えてくれる。

ドラッカーは著書『マネジメント』で人材の強みと生産性についてこう言っています。
<人材は、強みや成果をあげる可能性に期待して雇うはずである。組織の狙いは、働き手の強みをテコにして生産性を高め、人材の弱みによる悪影響をかわすことにある。>

そうだった、人材は弱みを治すために雇ったのではなかった。現実の組織では、なぜか人の弱みにダメ出して改善を求めていることが多い。人は他者の欠点はよく見えるが、強みは見えにくい。マネジメントはあえて人の強みを見にいかなければならない。

次回は組織デザインの方法について考えていく予定です。 [2014年3月17日]

『「全体と部分」と組織マネジメント(前)』 (vol.10)

「これが咳止めの薬です。これが喉の痛みをとる薬で、こっちは熱を下げる薬です。これらは薬は胃を荒らすので、それを抑えるための胃薬になります。」風邪をひいて病院に行ったとき、よくある薬局での会話だ。えっ、胃薬ってそういうものなの?と疑問を抱きつつ言われたとおりに飲んでみるが、薬のおかげで風邪が治ることはまれだ。

風邪を治したいから病院に行ったのに、”咳を止める”や”喉の痛みをとる”や”熱を下げる”など、風邪によって現れる個々の症状を解決することに問題がすり替わっている。風邪を治すことと、それぞれの症状を治すことは違うのではないか。風邪は各症状の集まりというよりも、身体全体が風邪の状態になっている感覚だ。

身体全体というシステムが何らかの不具合を起こして、風邪というトラブルを引き起こしているという感じ。人間の身体は、五臓六腑”という部分”から成る身体”全体”のシステムだ。それぞれの臓器は別々に自らの役割を正しく果たしつつ、刻々と変化する環境に対応して、身体全体が正常に機能することを目指して、お互いが絶妙に連携している。

ドラッカーは著書『マネジメント』で全体と部分についてこう言っています。
<全体の成果と個別業務という二つの現実の間には緊張関係が生まれる。この緊張関係を解消へと導き、そこから果実を生み出すのも、マネジメントにとって不断の務めである。>

風邪による身体の各部分の症状と、風邪をひいているという身体全体の状態とのあいだは、原因と結果の関係というよりは、お互いの緊張関係なのではないか。身体全体がひとつのシステムならば、個々に症状を解決しようとするのではなく、システムが機能しないボトルネックのような根本の原因を探して、それをテコして解決策を考える。

マネジメントの機能のひとつは、企業の目的と使命を明確にして、考え方や価値観の異なる人々をそこに向かわせることであった。しかし、ひとりの人間が持っている考え方や価値観は、それぞれが違う環境で今日まで生きてきて蓄積されたものだ。今の考え方や価値観を変えることは、今まで生きてきた時間と同じだけ必要かもしれない。

企業の目的や使命を明確にすることは、マネジメントの始まりであり前提だ。そして、目的や使命を明確にしてはじめて、ひとりひとりの社員との緊張関係が表面に現れてくる。緊張関係が見えることは、お互いの考え方や価値観の違いが見えることだから、その違いを手がかりにして、お互いに対話をかみ合わせることができるようになる。

ドラッカーは著書『マネジメント』でコミュニケーションについてこう言っています。
<コミュニケーションは、共通の理解や言葉を前提としているが、たいていの場合、これこそがまさに欠けているのである。>

企業の目的と使命を明確にした後、それを毎日全員で唱えたとしても、それだけでは本当に理解されることはない。言葉には形式と意味がある。文法上正しい表面上の言葉を共有することはできるが、言葉はそれが指し示す意味と常にセットだ。意味が共有されないかぎり、本当に理解が共有されたことにはならない。

人は意味が理解できないまま、自ら積極的な行動に移すことは難しい。企業の目的と使命について、その意味の理解を組織全体で共有するために、意図的にコミュニケーションのしくみをつくることが、マネジメントの方法のひとつといえそうだ。

次回は引き続き「全体と部分」について考えていく予定です。 [2014年3月3日]

『マーケティングと自社の事業は何かという問い』 (vol.9)

「午前中忙しかったんでお腹すいたなあ、近くにラーメン屋があるから入るか?」減ったお腹を満たすことへの”ニーズ”だ。「今日の昼食は並んでもいいいから、久しぶりに○○軒のラーメンが食べたいなあ!」他ではない○○軒のラーメンへの”ウォンツ”だ。

コトラーは著書『マーケティング・マネジメント』でニーズとウォンツの違いについてこう言っています。
<ニーズとは、食料、空気、水、衣服、風雨を避ける場所といった人間の基本的欲求である。こうしたニーズがそれを満たす特定のものに向けられるとウォンツになる。>

繰り返し買ってくれる「顧客=ファン」を創造するためには、自社の商品やサービスが人々のニーズを満たすだけではもの足りない。その場合は数多くの競合他社の中から、特別な理由もなくそのときに選ばれた可能性が高い。「これが欲しい!」というウォンツを満たす商品があるときに、これから長い付き合いになる顧客が生まれ得る。

自社の顧客を創ることができ、顧客のウォンツを満たす商品やサービスを提供し続けることができたとき、その企業は何を手に入れたと言えるだろうか?ひとつのブランドを手に入れたといえるだろう。顧客は自分のお気に入りのブランドを指名買いする。

ドラッカーは著書『マネジメント』でマーケティングについてこう言っています。
<マーケティングの狙いは、販売努力を不要にすることである。顧客を知り尽くしたうえで、何もしなくても売れていくような、顧客にふさわしい商品やサービスを提供するのが、マーケティングの目指すところである。理想は、マーケティングの結果、顧客が進んで商品を購入してくれることである。>

ブランドとは、「顧客への提供価値の約束」と定義できる。顧客がいつその企業の商品やサービスを買っても、自分が感じる価値や満足を裏切らないと安心できる信頼関係のことだ。あるニーズに対して商品を選ぶという作業はそれなりに負担になる。消費者がある企業の顧客になることは、企業と顧客の双方が目指すべきゴールともいえそうだ。

たとえば、○○軒の顧客は商品としてのラーメンを欲しているのだろうか?ラーメンの味や素材にもちろん満足しているだろうが、お店の雰囲気や清潔感、大将の人柄や店員の接客、料理を出す時間等々、それらと価格を比較しながら価値を感じているはずだ。

ここへきて「自社の事業は何か?」の問いに答えるための準備ができた。次に「顧客は自社の何に価値を感じているのか?」に答える。それを満足させることが顧客を創造すること、つまり自社の目的や使命、「自社の事業は何か?」への答えになる。「自社の事業は何か?」に答えるには、先に「顧客は誰か?」に答える必要があったのだ。

「自社の事業は何か?」への答えは自社の目的や使命であり、自社が存在する意味だから、すべての社員はここに向かって成果を生み出すために雇用されているということだ。組織をマネジメントするとは、自社の目的や使命に向かって目標とする成果を生み出すために、社員ひとりひとりの潜在力を最大に引き出す取り組みといえる。

ドラッカーは著書『マネジメント』で自社の事業についてこう言っています。
<「自社の事業は何か、何を事業にすべきか」という問いの答えを誰もが携えているのだ。(中略)組織の全員が共通のビジョンと認識を持ち、足並みを揃えて努力するためには、「自社の事業は何か、何を事業にすべきか」を決めることが欠かせない。>

ひとりひとりの社員が自社の目的や使命について異なる答えを持っていることは、人が全て同じ考え方であることはあり得ないから、自然のことだ。マネジメントは、組織に共通の目的と使命を定めるという方法を使い、その企業の一員として働く時間は全員をそこに向かわせるという機能を果たす。

次回は組織マネジメントの方法について考えていく予定です。 [2014年2月17日]

 

『顧客は誰かという問いとマーケティング』 (vol.8)

「おさるさんガンバレ〜」「ももクロちゃんガンバレ〜」、マラソン大会でひときわ応援を集めるのがコースを彩るコスプレランナーだ。ふつうコスプレというと自分が好きな人物やアニメのキャラクターの衣装をまとうことをいうが、もともとある言葉の"costume play"は演劇用語で、古い時代の衣装を着て上演する劇のことをいう。

"custom"、"costume"、"customer"は同じ語源だ。"custom"は「習慣、風習、慣行」、そこから”costume"は(着ることが習慣になっている服としての)「衣装」となり、"customer"は(そのお店から買うことが習慣になっている人としての)「顧客」ということになる。

「顧客」とは、ある地域の民族と民族衣装との関係のように、そのお店から買うことが長い間にわたって習慣になっている人のことだ。そうすると「顧客を獲得(get)する」という言い方には、やはり違和感がある。獲得(get)することができるのは、移り気で瞬間的(temporaly)な「消費者」という言い方がしっくりくる。

「顧客の創造」とは「顧客を無から新たに造る」ことであった。お店の商品を未だ買ったことがない人を、そのお店から買うことが習慣になった人へと変えるプロセスといえる。言い換えれば、「リピーター」をつくり出し、「ファン」や「サポーター」に育て上げて、中長期的に継続して利益をあげることが企業の目的だ。

「顧客は誰か」の問いは「どんな人が自社の(商品やサービスの)ファンやサポーターになりうるだろうか?」「どんな人を自社の(商品やサービスの)ファンやサポーターにしたいか?」と言い換えられる。そして、自社のファンやサポーターに共通する特徴を捉えることが、「自社の顧客」の概念を捉えることだといえる。

ドラッカーは著書『マネジメント』で企業と顧客についてこう言っています。
<企業とは何かを決めるのは顧客である。顧客だけが、商品やサービスに対価を支払おうという意思を持つことにより、経済資源を富へ、そして単なるモノを商品へと変える。>

たとえば、自称ミュージシャンが「究極のサウンドだ、誰よりも質の高い音楽ができた!」と吠え、たとえそれが本当だったとしても、それを聴きたいと思うファンがひとりもいなければ、商業的には「単なるオト」にすぎない。顧客が生まれなければ、彼は職業ミュージシャンになれない。顧客だけが「自称」を取ることができる。

ドカッカーは著書『マネジメント』でマーケティングについてこう言っています。
<真のマーケティングとは、買い手およびその人口動態、現状、ニーズ、価値観などを出発点とするものだ。「自分たちは何を売りたいか」ではなく「お客様は何を買いたいと考えているか」と問い、「これが製品・サービスの用途です」ではなく、「お客様が探し求め、重んじる満足がここにあります」と訴える。>

職業ミュージシャンは「自分は何をやりたいか」ではなく「ファンになる人は何を聴きたいと考えているか」、「これが僕の音楽です」ではなく「ファンになる人が探し求め、満足できる音楽がここにあります」と訴える。自分のやりたくない音楽でも、顧客が求めるものをやらなければ売れない。顧客を創造するとはそういうことだ。

「顧客が求めているものができた!」と叫んでみても、それが顧客が求めていたものかどうかは、実際に顧客が買ってくれるまでわからない。他人の心の中を見ることはできないから、顧客が求めているものは想像するしかない。正解がないから仮説をつくる。仮説と検証を繰り返していけば、「顧客とは誰か」が浮かびあがってくるはずだ。

次回は引き続きマーケティングについて考えていく予定です。 [2014年2月3日]

  

『顧客を創造することは顧客を獲得することか』 (vol.7)

「今月の新規顧客の獲得目標は10人だぞ、気合い入れていけ!」「わかりました、頑張ります!」。翻訳すると「勘弁してくださいよ、そんな無理言わないでよ」であることが多い。顧客を獲得するのは難しい。営業をやったことがある者なら、その実感が身体に刻まれているはずだ。

顧客を獲得するというのは、顧客を”get”するというイメージだ。「利益=売上−コスト」であるから、企業が利益をあげるためには、コストに差し引かれる売上がなくてははじまらない。コストは企業の中で生まれるが、売上は企業の外(=顧客)からしか生まれない。だから自然な流れとして、売上をあげるために「顧客をゲットする」という発想になる。

企業は法人という人格を法律で与えられているように、人間に似た存在として捉えられている。企業に対して好き嫌いの感情を持つのも、その活動が人としての活動に感じるからだ。食べ続けなければ人は生きていけないように、顧客を獲得し続けなければ企業は生きていけない。顧客がいなくなったときが、その企業の寿命が尽きるときだ。

ドラッカーは著書『マネジメント』で企業の目的についてこう言っています。
<企業の目的はそれぞれの企業の外にあり、内向きであってはならない。企業が社会の一部である以上、その目的もまた社会にある。企業の目的として妥当な定義はただひとつしかない。それは、「顧客を創造する」ことである。>

顧客を獲得(get)すると言ったとき、その考えの中心にあるのは企業自分自身だ。企業に顧客が必要だから顧客をゲットする。このとき企業と顧客の関係は、狩猟での人と獲物との関係のように対立関係にある。自らの目的を達成するために罠をしかけたり知恵を絞りながら、獲物をゲットする。目的は内向きである。

目的が内向き、つまり自己中心的な企業が好かれることはないから、社会で存在し続けることはできない。そこで、顧客を獲得(to get a customer)するのではなく、顧客を創造(to create a customer)する。そうか、そうだったのか。明日から営業目標は「今月の新規顧客の創造目標は10人」にしよう。あれれ、なんのこっちゃ。

広辞苑で「創造」を引いてみると、「@新たに造ること。新しいものを造りはじめること。A神が宇宙を造ること。」とある。なるほど、顧客は無から新たに造られるのだ。街を行き交う人々は皆顧客になりそうに見えるが、そうではない。街を行き交う人々はすでにたくさん存在するが、顧客は新たに造られてはじめて存在する。人々と顧客という概念を分けて考えることがカギのようだ。

ドラッカーは著書『マネジメント』で企業の目的と使命についてこう言っています。
<企業の目的と使命を考えるうえで真っ先に考えるべき必須の問いは、「顧客は誰か」である。この答えはおよそ自明ではない。これにどう答えるかによって、企業が自社をどう定義づけるかがおおむね決まる。>

「顧客は誰か(Who is the customer?)」と聞かれれば、「えっと、A社(さん)とB社(さん)と…」と答えるのが普通だろう。この答えから企業の目的や使命は導き出せそうにない。しかし、個別の会社や人ではなく、顧客という概念を捉えることができれば、適切な答えを導き出せそうだ。

次回はマーケティングについて考えていく予定です。 [2014年1月20日]

  

『成果をあげることは利益をあげることか(後)』 (vol.6)

日本語版『マネジメント』の中で「成果」は、原著の「perfomance」の訳語として使われている。「今日の演技はいいパフォーマンスだったね」とは言っても、「今日の演技はいい成果だったね」とは言わない。「perform」の語源は、per(完全に)+form(かたち)=「完全な形にする」で、やはりドラッカーの言う「成果」は、「結果」そのものではなく、「結果を形づくる」ことを意味しているようだ。

利益の原因をつくり出すことがマネジメントであるならば、「何のためにマネジメントするのか」という問いは、「利益とは何か」を考えることと同じだ。利益とは企業が継続し、成長するために必要なものである。その通りだ。しかしよく考えると、企業が生み出す利益とは、経済社会を成り立たせるための唯一の源泉であることがわかる。

ドラッカーは著書『マネジメント』で企業と利益についてこう言っています。
<企業は経済成果を生むために存在しており、それが企業の定義である。(中略)企業が社会において果たすべき努めは、決して経済の成果だけではないが、経済の成果こそが最も重要な努めである。なぜなら教育、保険・医療、防衛、知識の増進などほかのすべての社会的努めは、経済資源の余剰、つまり利益などの留保に依存しており、それを生み出すには企業が経済の成果をあげる以外に方法がないのだ。>

国家財政というと、たとえば補助金など「国からもらう」という感覚になってしまうが、もとをただせば(個人の給与も企業から支払われるので)企業の利益から支払われた税金だ。国債でまかなっている分は、将来の利益をあてにしたものだ。増税しても元手がなければ払えないのだから、社会はマネジメントがいかに企業の利益をあげられるかにかかっている。

社会にとっての「利益とは何か」は分かった。では企業にとっての「利益とは何か」は、理解を共有できているのだろうか。「利益をあげるとは?」と聞かれたら、「儲けることでしょ」と答える。まったく違和感のない会話だ。でもちょっと思考停止風なヤバさも感じる。

ロジカルシンキングしよう。「So What?」(それで、儲けてどうするの?)。さらにこう聞かれると、意外とそこまで考えていなかったことに気づく。「儲かりまっか?」「ぼちぼちでんな」。儲かることはよいことだ、文句あるか。

ドラッカーは著書『マネジメント』で利益の役割についてこう言っています。
<利益の社会・経済面での役割は、以下のとおりである。1.事業継続コストを賄うための「リスクプレミアム(上乗せ利益)」、2.将来の雇用を賄うための資本の源泉、3.イノベーションと経済成長を後押しするための資本の源泉>

前回のコラムで、利益は不確実な将来へのリスクを取ったリターンという解釈ができた。それを反対側から見ると、将来のリスクを取るために必要な分の利益が求められるということだ。元手の大きさに比例して、取ることができるリスクの大きさも決まってくる。では将来どれだけのリスクを取ろうとするのか、これを決めることがマネジメントの役割のひとつといえそうだ。

次回からマネジメントの方法について考えていく予定です。 [2014年1月7日]

  

『成果をあげることは利益をあげることか(前)』 (vol.5)

「おれも昔はこれで結構モテたんだぜ」、よく聞くオヤジのせりふだ。モテ期が聞く度に変わっているのはご愛敬。「これであなたもモテモテ」、これを待ってた!深夜にくり返されるCMに乗せられて、埃まみれの最新鋭ダイエットマシンが部屋の一画を占拠中。ときどき物干し代わりで活躍してます。モテ話はあまり今について語られないものだ。

しかし、存在するのは今しかない。過去はその人の記憶にしかなく(そのため通常それは脚色され、他者が確認することはできない)、未来は定義により未だ来ていないのだから存在しない。「いつやるか?今でしょ!」、今しかないのだから当り前のことなのであった。そして「無限に考えられる選択肢の中から今何することを選ぶか?」、その人の性格はここにこそ現れる。

上司が部下に「利益をあげろ!」と指示するとき、いつのことを言っているかといえば、これは必ず未来のことだ。決算期(1年間)、半期(6ヵ月)、四半期(3ヶ月)のいずれかの利益目標に対して、「利益目標を達成しろ!」と言っているのと同意である。今日利益をあげろという意味では使っていないはずだ。

利益をあげるとは、ある一定期間の後に目標とする利益を確保するということだ。したがって「企業が成果をあげる」とは、「一定期間を通じて利益を確保する」と同じ意味ということだ。この原因と結果の関係を混同しないように気をつけないといけない。すべきことは、結果を出すために原因をつくることである。その原因をつくり出すことが、マネジメントすることだ。

ドラッカーは著書『マネジメント』で、企業の成果と利益についてこう言っています。
<利益は原因でなく結果である。マーケティング、イノベーション、生産性などの面で企業が成果をあげると、その結果として利益が生じるのだ。(中略)何より、利益は成果を確かめるのに役立つ。成果を確かめるには利益を測るほかない。>

15世紀頃イタリアで発明された複式簿記から生まれた利益という概念が、企業の成果を測るための標準的な道具として、21世紀まで変わらず使い続けられている。500年も続いている業界標準(デファクト・スタンダード)は強い。それだけ優れた発明であった証明だ。先人に感謝して、成果を利益で測らせてもらおう。

ところで、マネジメントすることで利益の原因をつくり出すわけだが、マネジメントが結果として利益をあげることができたとき、マネジメントは何に成功したといえるのだろうか?

ドラッカーは著書『マネジメント』で、利益の原因についてこう言っています。
<利益は、不確実性というリスクを取った褒美でもあるのだ。経済活動は、活動であるがゆえに、将来に照準をあてている。だが、将来に関してただひとつ確かなのは、不確実性というリスクがあることだけだ。>

結果である利益の原因をつくり出そうとするとき、将来のことであるゆえに、どれだけリスクを取るかを自由に選択することができる。一定期間の利益の大きさとは、企業がその間に取ったリスクの大きさであった。企業をマネジメントするとは、将来の利益という結果に対してリスクを取ることだ。

次回は成果と利益について引き続き考えていく予定です。 [2013年12月16日]

『マネジメントという言葉とコインの裏表(後)』 (vol.4)

マネジメントの否定面を具体的な映像でイメージしてみる。映画スター・ウォーズで、黒装束のダース・ベイダーが支配する帝国がそうだ。幹部はベイダーの命令に対して「YES,MY LORD(仰せのとおり、ご主人様)」と答える。もし命令に逆らったり、失敗したりすればその場で存在を消される。兵隊(ストーム・トルーパー)は同じ表情の白い全面ヘルメットと装甲服を着用させられ、命令に忠実に動くよう訓練されている。命令に従うだけなら、個性はないほうがよい。

ダース・ベイダーは、絶対的な権力者として恐怖で支配するために、フォース(力の源泉)のダーク・サイド(暗黒面)を使う。フォースを使える能力を持つ選ばれし者である。反対側にあるライト・サイド(光明面)を使うには困難な訓練が必要だが、ダーク・サイドは恐れや怒り、憎しみを利用すれば容易に使うことができる。そのため、常にダーク・サイドの誘惑には負けやすい。

フォースのライト・サイドは、ジェダイの騎士が世界に自由と平和をもたらすために使う。帝国の専制に支配された世界から自由を勝ち取るために闘う反乱軍は、フォースのライト・サイドを使うジェダイの騎士ルーク・スカイウォーカーを中心に、同志である多様な個性のメンバーがひとつの自律的なチームとして機能している。

強い意志を持ち常に冷静なレイア姫、自由で合理的だが人情もあるハン・ソロ、おしゃべりで気が弱いが通訳でつながりを広げるC3−PO、自己主張しないが決定的な仕事をするR2−D2、言葉ではなく行動でコミュニケーションするチューバッカ。帝国の同質的な人々とは対照的に、個性的なメンバーが自分の意見を自由に主張し、それぞれの強みを発揮しながら次々と現れる様々な困難をチームで乗り越えていく。

ドラッカーは著書『マネジメント』で、マネジメントの肯定面についてこう言っています。
<組織を柱とした多元的な社会で自由と尊厳を保つには、組織に自主性と責任を与え、高い成果をあげさせるのが唯一の方法である。ただし、組織に成果をあげさせるのは、経営者とマネジメントの仕事である。専制を避け、そこから身を守るには、マネジメントが十分な働きをし、責任を果たすしかない。>

フォースのライト・サイドとダーク・サイドは、マネジメントの肯定面と否定面の具体的なイメージに近い。組織は放っておくと誰かがダークサイドの誘惑に負け、専制的な組織になってしまう傾向を内在している。マネジメントの意味(価値)とは、そのことを認識しながら、ライト・サイド(マネジメントの肯定面)から見た組織のあり方へと導くことではないか。

コラム(Vol.1)から考えてきたことは、「なぜ今マネジメントという言葉を語っているのか」、言いかえれば、「なぜマネジメントをするのか」(WHY)に対する答えだ。何かを考えるときにわたしたちはつい(WHAT)から考える癖がついている。例えば、ドラッカーの言葉を借りて「マネジメントとは顧客を創造することだ」と答えて、マネジメントについて考えたつもりになってしまう。

しかし、(WHAT)から入ると、早かれ遅かれいずれ「なぜこれをやっているのか?」(WHY)という問いが浮かんでくる。「マネジメントとは○○である。」と述語から入ったために、主語である「マネジメント」それ自体の意味を(自分のものとして)捉えていないからだ。意味を捉えていないから「やっても意味がない」という結論が出やすくなり、コツコツと積み重ねてきた取り組みが中断されやすくなる。

他者が出した答えを探しあてただけでは、自分でそのことを考えたことにはならない。自分で考えていないから、実は分かったつもりになっているだけで、本当は分かっていない。腑に落ちていないから、時間が経つと迷いが生じやすくなる。

(WHY)をおさえたら、その後は(WHAT)→(HOW)→(DO)→(CHECK)のサイクルを回していけばよい。サイクルを回す前に、(WHY)を捉えて共有しておくことが大切だ。

次回からは「マネジメントとは何をどうすることなのか」、具体的に(WHAT)と(HOW)を考えていく予定です。 [2013年12月2日]

『マネジメントという言葉とコインの裏表(前)』 (vol.3)

人がその言葉に意味を見い出すのは、そのことをしたり、そのことについて話したりすることに価値があると感じるときだ。「意味ないじゃん!」と言うときは、その言葉そのものに意味がないということではなく、そのことをしたり話したりすることに価値がないという意味で使っている。

マネジメントという言葉に意味が見い出されなければ、マネジメントがなされたり、マネジメントについて話されたりすることはない。マネジメントしたり、マネジメントについて話したりすることに価値があると感じてはじめて、積極的に取り組んだり話したりしたくなる。

価値を感じるということは、それをよいと感じるということだから、同時にわるいと感じるイメージがないとよいと感じることはできない。ある言葉やあることに価値を感じたということは、それ自体に肯定的な面と否定的な面を同時に発見したということだ。

たとえば、あの人は料理が上手いというとき、下手(上手くない)という概念があるから、上手いという意味をはっきりと理解することができる。上手い人が現れるには、下手な人も必要なのだ。皆が上手かったら、上手い人は出てこない。

マネジメントの意味を考えるときにも、マネジメントされていない状態を考えることで、マネジメントするとはどういうことかが見えてくるかもしれない。なぜかわからないが、マネジメントすることよりも、マネジメントしないことのほうがイメージしやすい。

マネジメントしないとは、人が集まったときに意図的な働きかけを何もしないというイメージだ。ひとりひとりが自分の思うがままに勝手に動き出す。というより何もしないわけにはいかないから、自分なりに考えて動くしかない。しかし、時間とともにカオス状態になり、あちこちで衝突も起こる。混乱を収拾するためにボスが必要とされ、「勝手なことをするな!」とボスの指示により組織に力による秩序をつくり出す。

ドラッカーは著書『マネジメント』で、マネジメントの否定面についてこう言っています。

<組織が自主性と強大な力を持ち、成果をあげられる状況が失われたら、それに代わるのは専制でしかない。多数の組織が競い合う状況が失われ、絶対的な権力を持ったひとりの人物による支配がはじまる。責任に代わって恐怖が幅を利かせる。>

次回はマネジメントの否定面(コインの裏側)を始点にして、その反対側にある肯定面(コインの表側)をイメージして、マネジメントの意味(価値)を捉えていく予定です。 [2013年11月15日]

マネジメントという言葉とコミュニケーション(後)』 (vol.2)

「マネジメントって、目標と実績の差を管理していくことだよね。」と言われ、「マネジメントって、人をどう動かしていくかということでしょ。」と返してみる。ところが「目標と実績の差をどう埋めるか、数字で管理するのがマネージャーの仕事だよ。」ってこっちの話聞いてないの?「違うよ、仕事をするのは人なんだから社員の行動をどう引き出すかがマネージャーの仕事だよ。」と強く言ってみる。

マネジメントという言葉について、相手と違う意味で捉えているようだ。ここで意味をすり合わせるステップに進みたいのだが、だいたい無意識のうちに”どちらが正しいか”の勝負に入ってしまう。いわゆるディベート(討論)開始のゴングが鳴り響く。討論が進むにつれてお互いに熱くなり、勝負がつくか時間切れになるまで試合は続く。こんなことなら言葉の意味のことは触れなければよかった?

ある言葉の意味には一定の範囲があり、その言葉の意味を(これも言葉で)説明しようとしても、どうも部分的にしか説明できない。言葉の意味をすり合わせるとは、ある人が部分的に説明していることを積み重ねていって、できるだけその言葉の全体の意味に近づける作業といえる。この作業がうまく進めば、ひとりよりもチームで考えたほうがその言葉の本質に近づくことができる。ディベート(討論)ではなく、ダイアログ(対話)で新たな意味を創造していく。

    ディベート(討論)とダイアログ(対話)
ドラッカーは著書『マネジメント』で、「仕事」と「仕事をする」とは違うのだと言っています。

<仕事はモノの領域に属し、人間とは無関係な独自の論理を持っている。他方、仕事をすることはヒト、つまり生き物の領域に属する。もっとも、マネージャーは常に仕事と働き手の両方をマネジメントしなければならない。仕事の生産性を高め、働き手の達成意欲を満たすのだ。仕事と働き手をうまく調和させる必要がある。>

何かを語るときには、ひとつの視点を持たないとうまく語れません。しかし、その本質を語るためには複数の視点から光をあて、できる限り多くの人が共感できる普遍的な意味を照らし出す作業が大切になってくるのです。

このコラムでは、ドラッカーの『マネジメント』を基本の教科書として、適度に他の本で補足しながら、組織マネジメントの本質を捉えていく予定です。 [2013年11月5日]

マネジメントという言葉とコミュニケーション(前)』 (vol.1)

誰かと話をしていると「あれ、どうも話がかみ合っていないな」と感じる瞬間がやってくるときがあります。こんなときは、話している言葉(特にキーワード)の定義がズレていることがほとんどです。

マネジメントという言葉は自然に身体に入ってくるし、誰かと話をしていても「それ何?」と聞かれることはまずありません。ところが、いつものとおり油断しているところに「それ何?」と聞かれると、意外と動揺してしまいます。経営とか管理とか辞書に載っている説明を一応してみますが、何だかすっきりしません。お互いに経営や管理という意味でこの言葉は使っていないからです。

限られた時間で生産的な話をするには、本題に入る前に「マネジメントってこういう意味だよね」と言葉の意味をすり合わせる手間をかけられるかどうか。自分がそういう意味だと思っている言葉は、相手もそう思っているだろうと勝手に思い込んで話をしていることがほとんどなので、ここを自覚できるかどうかがコミュニケーションの分かれ目です。

マネジメントという言葉について、ドラッカーは著書『マネジメント』でこう言っています。

<「マネジメント」は、ことのほか難しい言葉である。そもそもアメリカに独特の言葉であるため、他の言語にはおよそ訳しようがない。イギリス英語にすら訳せない。「マネジメント」は職能を表すと同時に、その職能を担う人々も指す。社会的な地位、さらにはひとつの専門分野、研究分野をも意味する。>

日本語で言葉にならない概念、これがマネジメントです。しかし、よく考えてみれば言葉にならないからこそ、人それぞれに固まった先入観がないということです。だからこそ、本質を共に考えやすい言葉ということです。

組織マネジメントの本質とは何か、本の中の師匠たちの力を借りながら、このコラムで考え続けていきます。 [2013年10月1日]

組織マネジメントの本質を考える(コラムの主旨)

表に現れるひとつひとつの問題に対処しても、その源にある本質的な問題が解決されない間は、同じ源泉からかたちを変えて次々と問題が現れてくる。もぐらたたきの構図です。地面に顔を出すもぐらを一匹ずつ撃退しても、地中にあるもぐらの巣をやっつけないと次々に顔を出す。たたく側はいつか疲れてゲームをやめるが、もぐらの仲間は巣の中でみんな元気にやっている。

一定の期間に組織の変革を成功させるためには、組織マネジメントの本質を捉えて、その方法を考え、実行していくことが必要です。このコラムは、組織マネジメントの教科書(にしている本)からその知恵を学び、考えを整理するための場にしていきます。


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